大師道・再度山 (お勧め度★☆☆) 表六甲【1-32】 |
今年の歩き始めは、初詣も兼ねて大師道から再度山大龍寺を目指してみた。大師道は大龍寺の参詣道として栄えた古道で、正月三日の今日(平成26年1月3日)は、山歩き姿ではない者も含めて、多くのハイカーが大龍寺を目指していた。また、大師道は毎日登山発祥ルートでもあり、大師道を登りきったところにある善助茶屋跡では、毎日登山の歴史を振り返ることができる。 |
JR元町駅西口を10時30分にスタートする。 駅を北側に出て西に進む。階段を上り、すぐある歩道橋を渡って北に進む。 生田中学沿いに進んでいくと、兵庫県公館に突き当たる。これを、左に巻いて進むと兵庫県庁前の交差点となる。 交差点を渡り、相楽園横をさらに北上すると諏訪山公園に至る。 |
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諏訪神社鳥居 | |
諏訪神社の鳥居を右手に見ながら車道を少し西に進むと神戸山手大学となる。ここから大師道が始まる。 諏訪山公園の角の石垣には「←大師道(再度谷)」の表示がされている(10:54 写真左)。 大師道は再度(ふたたび)山大龍寺を目指す道。その再度山は弘法大師が二度登ったことから名づけられたとされる。 大師道は市街地から近く、緩やかな道であることから毎日登山の盛んな山筋でもある。 |
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大師道の表示 | |
大師道は、住宅地の中の舗装路で始まる。 先行する二人のハイカーに続いて、当方も緩やかな坂道を登り始めた(写真右)。 右手側に神戸山手女子高校の建物が見えてきた。高校の正門の少し手前で、大師道の丁石(二十一丁)が登場した。 二十一丁の丁石は小屋に収まって、よく管理された感じだ。 |
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大師道をスタート | |
次に、二十丁の丁石が山脇に登場(写真左)。この辺りから舗装路の道幅が狭くなる。 十九丁、十八丁と丁石を確認しながら進んでいく。前方からは、山から下ってくる方と何人もすれ違う。毎日登山の方か、初詣を終えられた方なのか・・・。 |
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大師道の丁石(二十丁) | |
再度谷川沿いの舗装路は更に狭くなり、曲がりくねりながら徐々に高度を上げている。 しばらく進んでヒヨコ橋を渡る。車が進めるのはこのヒヨコ橋までで、橋を渡ると、稲荷茶屋の表示(11:10)。この茶屋は閉まっている様子。 更に進むと、十五丁の丁石があり、再度谷公衆トイレに至る(11:12)。ここは「燈籠茶屋」の手前で、燈籠茶屋は、たくさんの登山会の署名所になっている。 |
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燈籠茶屋の手前 | |
再度谷公衆トイレ手前の稲荷橋を渡る。すると、右手側から山道が合流してくる(写真右)。 これは諏訪山公園、諏訪神社から登ってきた山道で、そちらの道からも複数名のハイカーが合流してきた。 稲荷橋を渡った所には「大龍寺・再度公園へ約3.8km」の表示がある。 |
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諏訪山公園からの道が合流 | |
再度谷川沿いの道を更に登る。十四丁の丁石が登場(11:17 写真左)。この丁石の隣の標柱には「再度公園へ3.7km」の表示がある。 11:22 右手側に多々部橋が登場。この橋を渡った奥には新しく大きな砂防堰堤が造られていた。 |
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再度谷川沿いの道を登る(十四丁) | |
11:26 右手側に一休亭なる建物が登場した(写真右)。中からは、賑やかな談笑の声が漏れてくる。山の会の新年会が催されているのだろう。 一休亭を過ぎると再度第五橋を渡る。そこには十一丁の丁石がある。 次に、十丁の丁石登場で、又、橋を渡る(11:30)。 |
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一休亭 | |
11:33 右手側の少し上手に、ヒヨコ会館跡(1932〜1938)と書かれた標柱が目に入った。建物の跡地のような場所であり、ここに毎日登山の山小屋でもあったのだろうか。 11:36 再度登山道第4橋を渡る。ここにはほうきが置かれ、一帯がきれいに掃き掃除されている。 次につづらの階段道を登る。これは諭鶴羽堰堤を越える階段で、階段を登った所にもほうきが置かれていた。 この大師道は毎日登山と参詣の道で、関係者の方が毎日、掃除されているのだろう。 |
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ヒヨコ会館跡 | |
四丁の丁石を過ぎると、また、つづらの登りとなって、それを登りきると、二本松林道に合流した(11:48)。 林道の北側は猩々池で、何名かのハイカーが休憩されていた。 猩々池の湖畔には四丁の丁石が立っていた(写真下)。猩々池に登ってくる坂道にも四丁の丁石が立っていたが、どちらが正当な四丁なのだろうか。 |
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猩々池 | |
なお、猩々池の北側に池の案内表示があり、それには、この池について次のように説明されていた。 「摂津の国、四カ村の地はみな土地が高く水が乏しいので、日照りの年はいつも村民は苦労した。花隈村長の村上尚善はこれを心配して1790年(寛政2年)村民を集めて相談し、貯水池を造ることにした。しかし、意見が一致せず数度の請願にも役所の許可が得られなかった。正しい筋道を好み慈愛深く国に役立つ志の強かった二つ茶屋村長の橋本邦直は、1845年(文化12年)村民の意見をまとめ代官の許可を得て6月に工事を着工した。翌年8月水深約25m南北約117m東西約68mの池が完成した。村上尚善の建議以来26年が経っていた。老人たちは池の完成を喜び酒樽を用意し池のほとりに代官を迎え、猩々の謡曲で宴に興をそえた。これによって代官はこの池を猩々池と命名した。」 |
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猩々池(四丁の丁石) | |
猩々池からは大師道は車道も兼ねるので、たまに来る車に要注意である。 11:55 大師道の左側にカフェ「はなれ家」の表示が見えてきた。その後方には、「鯰学舎」の看板もあるい。こんな山中で懐石料理の店とカフェが営業している。 「鯰学舎」脇の再度水掛地蔵に手を合わせ、さらに大師道を登って行くと、道脇にまたまた箒が備えてあった(11:59)。「大師道の清掃にご協力を」の記載も見える。大師道は多くの人が力を合わせる事できれいに掃除されているということだ。 12:01 前方に「再度山」と彫られた石階段が見えてきた。その階段横には一丁の丁石が立っていた(3864)。ここで一丁ごとに道のりを記してきた丁石も終点となる。 |
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鯰学舎と再度水掛地蔵 | |
一丁の丁石から石階段を上り大龍寺の駐車場に出た。駐車場は車でいっぱいだ。 ここから本堂を目指して更に石階段を登っていく。階段の途中で、「毎日登山壱萬回塔」と彫られた石塔が目に入った(写真右)。これは、毎日登山を続けて壱萬回に達した人の名を刻し、その努力を称えるために建設したものという。 壱萬回というものすごい数値には、頭が下がる。継続する気力が力の源になり、それが健康の維持と繋がって、回数を重ねられるのだろう。 見習いたいが、ずぼらな当方には到底無理だ。 |
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毎日登山壱萬回塔 | |
次に仁王門(12:05 写真左)。 2体の金剛力士が参詣者ににらみを利かせている。門には「真言宗別格本山再度山大龍寺」の表記がある。 別格本山とは、「本山に準じた待遇を受ける、特別な格式をもつ寺院」と、辞書にあるので、大龍寺は位置づけの高いお寺なのだ。他に総本山や大本山という名称もあるが、序列はどうなっているのだろう? |
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大龍寺仁王門 | |
階段を登りきると、大龍寺本堂に到着だ(12:08 写真左)。境内は多くの参拝者で賑わっていた。車の利用者も含め、初詣に大龍寺を目指す、山愛好者が多くいるということだ。 大龍寺は、768年(神護慶雲年間)和気清麻呂によって再度山山頂近くの南斜面に開かれたとされる寺院である。 和気清麻呂は、塔を建立するために再度山へ登る途中、道鏡の刺客に今にも殺されそうになったが、その時突如、大龍が現れて救われたという伝説が残っている。そのことから、この寺が大龍寺と名づけられたとか。近くにある龍が現れたとされる谷には「蛇ケ谷」の名称も残る。 |
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大龍寺本堂 | |
大龍寺本堂で新年のお参りを済ませ、次に、「奥の院大師道入口」の表示に従って、大龍寺奥の院から再度山に登ってみることにする。 | |
「奥の院大師道入口」の表示 | |
不動堂の右側から奥の院への道に入る。更に続く階段道を登って行くと奥院大師堂に到着(12:17 写真左)。 奥院には何度か来たが、今まで人に会ったことがなかった。しかし新年の今日は、ここにも参拝者がいた。挨拶を交わし、奥院大師堂から次に再度山を目指す。 奥院大師堂の右側から山道が登っている。踏み跡がはっきりしているし、「この奥 天狗岩・亀の石」の表示も立っているのですぐわかる。 |
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大龍寺奥の院 | |
途中、急な斜面の登りもあるが、トラロープが設置してある。 12:25天狗岩・亀の石に到着。ここで、再度山から下ってきたおばちゃん三人組に遭遇。三人で賑やかにおしゃべりしている。話の内容は亀の石の場所についてである。盗み聞きではないが、おばちゃんたちの会話で亀の石の場所を教えていただいたことになる(写真右 12:25)。 天狗岩の前は何度も通ったが、亀の石の所在は知らなかった。 亀の石は岩のてっぺんにある。 |
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天狗岩・亀の石 | |
ちなみに、亀の石は、弘法大師自らが岩に刻んだとされる亀の像で、亀のように安全に海を渡れるようにとの願いがこめられているのだろう。(参考:「六甲山系の磐座・霊石」。 天狗岩・亀の石から更に登って再度山の山頂を目指す。途中、4人の親子連れとすれ違う。再度山で人に会うのはめずらしい。やはり正月だからだろう。 |
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亀の石 | |
12:30 再度山山頂(写真左) ここは展望のない山頂である。ぽつんと神戸市道路公社の基準点があるのみ。 再度山山頂からは、再度越の方(再度公園側)に下っていく。 再度山から再度越に下った所には「神戸市界」と彫られた石柱が立っている(写真下)。他の面には「明治三十三年建之」、「七十七号」との文字もある。 境界柱なのだろうか。再度山山域には古いものが多々残っている。 |
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再度山山頂 | |
再度越からは六甲縦走路に出て、大龍寺の駐車場まで戻ってきた。 ここから、駐車場のすぐ南にある善助茶屋跡に寄り道する(写真下 12:50)。 善助茶屋は、毎日登山が生まれた地とされる。 善助茶屋跡の東屋には登山者のためにノートが置かれており、山歩きの記録をこれに残すことができる。 また、善助茶屋跡の「毎日登山発祥の地」石碑の裏面には「いわれ」が記されてあった。 その内容は次の通り。 |
明治三十三年建之 |
善助茶屋は、毎日登山が生まれた地とされる。明治38年頃、在神の外人が北野から範多(ハンター)坂を登って、この地にあった善助茶屋にサインブックを置いて署名する習わしをつけた。元町及び海岸通の商社の人たちがこれに倣って登りだしたのが神戸市民の毎日登山の始まりである。
大正初期から昭和十年頃までが最盛期で、この善助茶屋に百冊に余る登山会の署名簿が置かれ、早朝から賑わっていた。しかし、この善助茶屋も戦後次第に訪れる人がなくなり、いたずれに風雨にさらされ老朽化して、ついに取り壊しのやむなきに至った。(善助茶屋跡を保存する会之建) 「之建」は字が逆か?(^_^;) |
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善助茶屋跡 | |
善助茶屋跡からは、大師道に戻り、午前中に登って来た道を下っていくことにした。 途中、燈籠茶屋で、たくさん並ぶ署名所の看板を眺める。(13:25)事業者団体の登山部の名称が多いが、中には「郵便局集配職員休息所」の看板もあった。ここの掲示は署名所のみを示すものではないようだ。 更に大師道に並ぶ丁石を確認しながら下っていく。背の高い石柱や低いもの、新らしそうな石柱や年季の入ったもの、花がきれいに飾られた石柱や、見向きもされてなさそうなもの、丁石の待遇には差があるな、などと考えながら下っていると、知らぬ間に兵庫県庁の所までやってきていた。 ここから、神戸市営地下鉄「県庁前駅」で電車に乗り込み、帰途についたのであった(13:55)。 |
署名所の看板(燈籠茶屋) |
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