一ノ谷・須磨浦・源平合戦の地(お勧め度★☆☆) 西六甲【3-2】

今日(平成17年5月29日)は、朝日五私鉄リレーウォークに参加して、
一ノ谷、須磨寺など源平盛衰の道を歩いてみました。

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 初夏の晴天の一日、関西の私鉄五社が主催する「源平盛衰、歴史探訪ウォーク」に参加して、神戸市須磨区から兵庫区あたりまで歩いてみました。
 まず、山陽電車の須磨浦公園駅の南側を東に進み、戦の浜碑を目指しました。この辺りは、源平の戦いにおいて、平氏の陣があったことから「戦の浜」といわれています。
 戦の浜碑からは、北に向かい山陽電車の線路の下をくぐり、葛になった急な道を上りきると安徳帝内裏跡伝説地に到着です。(写真右) 
安徳帝内裏跡伝説地
安徳帝内裏跡伝説地
安徳帝内裏跡伝説地石碑  安徳帝は、清盛の娘建札門院徳子を母として生まれ、壇ノ浦で入水されたと伝えられる悲劇の幼帝です。
 この伝説地は、平家一門とともに西に都落ちする途中、一ノ谷に一時内裏を置かれたといわれています。
 この場所には、安徳帝内裏跡伝説地石碑(写真左)が建っています。
安徳帝内裏跡伝説地石碑
 安徳帝内裏跡伝説地からやや西に進むと、北に向かって急勾配の山道続いています。この、葛折になった山道を鉄拐山を目指して進んでいきます。
 写真左は、この急な山道から一ノ谷方面を望んだものです。
一ノ谷
一ノ谷
おらが山  急勾配の山道を登りきると、六甲山全山縦走路に出ます。今回は、鉄拐山頂上へは登らないで、左に巻くようにして縦走路を進んでいきました。
 この辺りは、尾根伝いの比較的歩きやすい道が続きます。やがて、おらが山公園の展望台に到着です(写真左)。写真の中央の建物は「おらが茶屋」です。
おらが山
 おらが山公園の展望台は、なかなかのビューポイントで、南側と北側に視界が開けています。
 当日は、特に北側の神戸市須磨区田井畑方面の町並みがきれいに展望できました。
 しばし、展望を楽しんだ後、おらが山を南に下り、高倉台団地を目指しました。写真右は、おらが山をやや下ったところから鉄拐山方向を望んだものです。
おらが山から鉄拐山を望む
おらが山から鉄拐山を望む
須磨寺、敦盛首塚  おらが山から、高倉台団地を通って、さらに第二神明道路の下をくぐって南に進むと、やがて須磨寺に到着です。
 ここ須磨寺には、平清盛の弟、経盛の末子である、平敦盛の首が埋葬されているともいい、写真左の敦盛首塚があります。
 若干16才の紅顔の美少年・敦盛が、坂東武者、熊谷直実に浜辺で首を討たれた話は有名です。
須磨寺、敦盛首塚
 須磨寺(写真右)は、真言宗須磨寺派の大本山で、淳和天皇のころに、和田岬の沖で漁師に引き揚げられた聖観音像を886年(仁和2年)に聞鏡上人が須磨の地に移したのが始まりといわれています。
 現在の本堂は、1602年(慶長7年)豊臣秀頼が再建したものとされています。
須磨寺
須磨寺
清盛塚 兵庫大仏
清盛塚 兵庫大仏
 須磨寺からさらに南に下り、須磨海浜公園に出ました。
 須磨海浜公園で昼食後、JR沿いに鷹取駅、新長田駅を通り、神戸ウイングスタジアムを通過して、清盛塚(写真上)に到着しました。
 清盛塚は、十三重の石塔で、清盛の遺骨が納められているという説がありましたが、大正時代の調査で墳墓ではないことが判明したそうです。
 しかし、弘安9年(1286年)の銘があることから、県の指定文化財とされています。
 清盛塚からやや北に進み、能福寺に到着しました。
 この寺は、清盛が京都で没したおり、初代の住職が遺骨をこの地に持ち帰り、法華堂に納めたと伝えられています。しかし、清盛の遺骨の行方には諸説があり、所在地は特定されていないようです。

 また、境内には、平成3年に再建された兵庫大仏(写真上)があります。兵庫大仏は日本三大大仏(奈良、鎌倉、兵庫)の一つであるとする説もあります。大仏本体は11メートルあるそうです。
平経俊塚  能福寺から、北東に進むと、鎮守稲荷神社があります。ここは、小児の守護神として信仰を集めていますが、境内には平経俊塚があります(写真左)。
 この塚は、もと入江の方にあったそうですが、そこが埋め立てられることになった際、この神社に移されたそうです。

 今日は、いろいろと源平の史跡をめぐりながらのウォークで、歴史を感じる一日となりました。
平経俊塚
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