高尾山・蛙岩 (お勧め度★★☆) 鵯越・鈴蘭台周辺【5-23】

神鉄西鈴蘭台駅(8:37)==鵯越墓園北門(9:03)==鵯越合葬墓(9:27)==高尾山(9:31)==高尾地蔵院
==義経馬つなぎの松==蛙岩(10:18)==水無池(10:42)==鵯越大仏(10:52)
==史跡鵯越石碑(11:05)==神鉄鵯越駅(11:12) (約2.5時間 令和元年7月7日)  
ROUTE MAP
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説明が青色文字の写真はクリックで拡大します。
 逆落しの場所について、鵯越説によれば、義経は相談が辻から鵯越を経て逆落としに向かったことになるが、その鵯越説の進路には、「義経公御陣の跡」、「義経馬つなぎ松」や「蛙岩」と史跡が多く残されている。義経馬つなぎ松は高尾山の山頂近くで、高尾山は展望もある。今日(令和元年7月7日)は、歴史に思いを馳せながら高尾山界隈の義経奇襲の道を歩き、史跡の探訪と高尾山の展望を楽しみたい。
西鈴蘭台駅前公園  7月になって、梅雨のうっとうしい天気が続いていたが、今日は晴れの予報となっている。蒸し暑い時期なので、短時間で山と史跡が巡れる場所という観点から、本日は鵯越の高尾山を歩いてみることにした。
 義経の奇襲で名を馳せた名勝鵯越に関係して、義経馬つなぎの松、兵を二分した地、蛙岩、そして史跡鵯越の石碑などを辿ってみたい。
西鈴蘭台駅前公園
南五葉1丁目交差点  神鉄西鈴蘭台の駅で下車し、改札を出る(8:37)。西鈴蘭台駅から西鈴蘭台駅前公園を横切り、鵯越墓園の北門を目指す。
 駅前の公園から南に進み、コープ西鈴蘭台店の南五葉1丁目の交差点で右折する。交差点の歩道橋には公示されたばかりの第25回参議院議員通常選挙の横断幕がはためいている。
 歩道橋から兵庫県道16号(明石神戸宝塚線)を西に進む。この辺りは、右手側にUR鈴蘭台第二団地の建物がたくさん並んでいる。
南五葉1丁目交差点
 南五葉3丁目のバス停を過ぎ(8:47)、道なりに進む。星和台1の交差点を過ぎると、少し登りの道になる。周囲の道の両側には車のディーラーが多く並んでいる。この一帯は、自動車屋銀座と呼ばれるエリアらしい。
 坂を登り切って星和台の跨道橋の下をくぐると、右手側にスーパー万代星和台店がある(8:56)。この少し先にしあわせの村交差点があり、そこが鵯越墓園の北門である。
星和台跨道橋の下
星和台跨道橋の下
鵯越墓園の北門  スーパー万代から車道を更に8分程で、しあわせの村の交差点に至った(9:03)。この交差点から右に下ると、「しあわせの村」で、左折すると、そこが鵯越墓園の北門である。
 墓園の入口には「墓参者のみ入門可」の表示がある。墓園への立入許可とあいさつを兼ね、北門に立つ守衛の方に「義経馬つなぎの松」への道順などを尋ねてみた。立入はOKで、墓園案内図を示していただきながら、園内の主要な車道を道なりに辿れば「義経馬つなぎの松」に至るとの説明をいただいた。
鵯越墓園の北門
 墓園内をハイキングする者は稀だと思っていたが、守衛さんによれば、ジョギングの方も、そこそこいるらしい。
 墓園北門には「鵯越墓園案内図」があり、墓参周遊バスの路線や、墓域の名称などが説明されている。それによると、「義経馬つなぎの松跡」は鵯越合葬墓を南に進んだあたり、蛙岩は新芝生地区の辺りである。鵯越墓園案内図でコースの概要を確認して、出発する。
鵯越墓園の案内図
鵯越墓園の案内図
星和台の住宅地  墓園北門を入り、車道を緩やかに登っていく。 この辺りで、北側を見やると、先ほど通過したスーパー万代の建物が、住宅地の中に古城のようにそびえていた(写真左)。
星和台の住宅地
 さらに、墓園の中の舗装路をゆるやかに登っていく(写真右)。時折、車がやってくるが、歩道があるので安心だ。
 やがて、前方に高尾山の山頂に立つ電波塔が見え隠れし始める。もう、高尾山も近い感じだ。
鵯越墓園内の車道
鵯越墓園内の車道
 その先で、「きょうちくとう7・8区」エリアの鵯越合葬墓のバス停となった(9:27)。墓園内は墓参用の周回バスがあり、ここはそのバス停の一つである。
 鵯越合葬墓のバス停からは南西に景色良しだ。明石海峡大橋や淡路島が真正面に見えている(写真右)。しばし、ここで休憩とする。
合葬墓バス停からの景色
合葬墓バス停からの景色
高尾地蔵院の石柱  鵯越合葬墓のバス停を過ぎると、車道は下りとなる。ここから歩道が無くなるので、車にも注意しながら舗装路を下って行く。時折やってくる車をやり過ごしながら、車道を下って行くとすぐに「高尾地蔵院」の石柱が左手側に登場した(写真左 9:30)。石垣の上の草むらの中に石柱が立っている。
高尾地蔵院の石柱
 「高尾地蔵院」の石柱のところから舗装路が左に登っており、そこが高尾山への登り口となる。併せて、ここは、義経馬つなぎの松、高尾地蔵院等への入口でもある。
 傍らには、「義経馬つなぎの松」の道標も立っていた(写真右)。
「義経馬つなぎの松」への道標
「義経馬つなぎの松」への道標
高尾山は門扉から登る  「高尾地蔵院」の石柱のところで左折して急な坂を登ると、正面に観世音菩薩が立っている。菩薩に手を合わせた後、その右側にある坂道に向かう。道は門扉で閉鎖されているが、立入禁止ではないようなので門扉脇から坂道に入る(写真左)。
高尾山は門扉から登る
 門扉の先は、急傾斜の舗装路で、ゆっくり登ったが汗が吹き出してきた。すぐに、高尾山の電波塔が見えてきた(写真右)。電波塔の手前で、舗装路から右に階段道が分岐している。その階段が高尾山の山頂に向かう道である。 高尾山の電波塔
高尾山の電波塔
高尾山の標示  階段を登ると、繁茂した夏草の中に白い杭があり、それに「高尾山頂 標高四百三メートル」と案内されていた(写真左)。
 白杭は古いもので文字が消えかかっている。その白杭から進んだ先が高尾山の山頂で、夏草の中にベンチが一つ設置されていた(写真左下)。高尾山山頂は南に景色良しだ(写真下)。
 東は、ポーアイ、神戸空港から、西は淡路島、明石海峡大橋が大パノラマだ。
高尾山の標示
高尾山山頂 高尾山からの展望
高尾山山頂 高尾山からの展望
 ベンチでしばらく展望を楽しんだ後に、高尾山の三角点(二等三角点:点名 不動山)を探査することとした。ベンチの左側付近にあるはずだが、草が繁茂して、どこにあるやら見当もつかない状況となっている。足先で草をかき分けながら、しばらく草むらの中を探査したが時間だけが過ぎていく。ジリジリと日照りもきつく、もうだめかと諦めかけたその時に、こつんと足先に反応があった。深い緑の中から、何とか三角点を発見した。(三角点の探査は夏場は駄目だと分かっていたが、夏草を甘く見ていた。反省。) 二等三角点:不動山
二等三角点:不動山
義経馬つなぎ松(義経公御陣の跡)  三角点も確認できたので、高尾山の山頂を後にし、次に電波塔のある広場に向かう。電波塔は、高尾山山頂直下に建てられている。塔の基部には「少量危険物貯蔵取扱所」、「A重油」の表示がある。塔には、A重油で動く機械があるようだ。
 電波塔からは何らの展望もないので、ここはすぐに出発し、先程登ってきた、急傾斜の舗装路を下って行く。鍵のかかった門扉の脇をこえ、次に、「義経馬つなぎの松」に向かう。「義経馬つなぎの松」は、観世音菩薩の向かって左手側の奥になる。
義経馬つなぎ松(義経公御陣の跡)
 「義経馬つなぎの松」は赤い鳥居(白川大神・高尾山神など)の前にあった(写真上)。朽ちた切り株が「義経馬つなぎの松」のようだ。
 脇に「義経馬つなぎ松(義経公御陣の跡)」と記された謂れ書の看板(写真右)があるので、間違いないだろう。その看板によると、義経の軍勢はここで合戦の相談をし、鵯越の逆落しを決行したと説明されている。この地は「義経公御陣の跡」とよばれ、松は「判官松」又は「義経馬つなぎ松」と呼び伝えられたと説明されている。
義経馬つなぎ松の看板
義経馬つなぎ松の看板
高尾地蔵尊 錦昌稲荷大明神
高尾地蔵尊 錦昌稲荷大明神
高尾山山頂を振り返る  なお、「義経馬つなぎの松」の奥には、「高尾地蔵尊」があり、更にその奥には、「錦昌稲荷大明神」が祀られている。このエリアは多くの神々と、多くの地蔵が祀られて、厳粛な雰囲気になっている。それぞれの神、仏にお参りし、「義経馬つなぎの松」を後にした(9:57)。
 次に蛙岩に向かう。車道を墓園南門の方に下って行く。舗装路は大きく曲がりながら下っている。その下り道からは、先ほど登った高尾山の電波塔が見えていた(写真左)。
高尾山山頂を振り返る
 更に、鵯越墓園内の車道を下って行く。遠く前方に、菊水山の電波塔が見えている(写真右)。菊水山は、ここ高尾山から、イヤガ谷川、烏原川を挟んで東側に対峙する山である。 遠く菊水山を望む
遠く菊水山を望む
新芝生7区、8区あたり  墓園内の舗装路は大きく曲がりながら下っている。やがて、猪除けの電気柵が巡らされた新芝生地区となり、その駐車場に小さな「蛙岩入り口」の表示があるのが目に入った(写真左下 10:18)。ここが蛙岩への取付きである。
新芝生7区、8区あたり
新芝生7区、8区あたり 蛙岩が見えてきた
蛙岩の道標 蛙岩が見えてきた
 取付きから、よく踏まれた山道を30秒ほど登ると、蛙岩に到着した。蛙岩は大きな岩がむき出しになった場所で、数匹の大蛙と多くの子蛙のように見えるのでその名がついた。その大岩は、雨に打たれ続けたためか、イボのように丸く窪んだ箇所が数か所あり、まるでイボガエルの様相だ。 蛙岩 1
蛙岩 1
蛙岩 2  蛙岩の伝承では、この蛙岩は夜になると生命を与えられ、巨大な蛙となって旅人を襲ったそうな・・・。蛙岩は鵯越七不思議の一つらしい。
 大きな岩が一面にあり、どれとどれが蛙か判別に苦労するが、大蛙と思われる岩を数枚UPしておく。
蛙岩 2
 奇勝蛙岩の確認を終え、南口に向け舗装路を下って行く。少し進んで、墓園のふじ地区まで下ってきた。ここで、ふじ地区の小ピークに夢野墓地上三角点(四等三角点)があり、まだ未踏であることを思い出した。夢野墓地上四等三角点のある小ピークに向かい、墓園内の舗装路を進む。
 なお、夢野墓地上四等三角点の標高は303.01mなので、高尾山(標高403.18m)からここまで約100m下ってきている。
夢野墓地上三角点の取付き
夢野墓地上三角点の取付き
神戸の街並みが見えてきた  ちょうどふじ地区では、法要のため墓参者と僧侶が読経中であった。小ピークの取付きはガードレールの端のところらしいが、そこは夏草が繁茂して、歩ける状況にない。夢野墓地上四等三角点の探査はあっさり諦めて退却を決定し、ふじ地区から離れ、墓園南口に向け下って行く。
 墓園内の車道をどんどん下って行き、その傾斜も急になってくると、前方に麓の神戸市街地が見えるようになってきた(写真左 10:50)。
神戸の街並みが見えてきた
鵯越大仏展望台の看板 鵯越大仏が見えてきた
鵯越大仏展望台の看板 鵯越大仏が見えてきた
釣鐘  そこで、道脇に「この上すぐ 鵯越大仏展望台」の看板があるのが、ふと目に入った(写真左上)。看板の指し示す方向には急階段が登っている。鵯越大仏は見たことがなかったので、階段を登ってみることにした。階段を登るにつれて、次第に大仏さんのお顔が見えるようになってくる(写真上)。その大仏の立つ手前には釣鐘があったが、それは地面に置かれていた。この場所は昭和7年に創られた鵯越共葬墓地で、大仏と鐘楼はその時に造られたものの、鐘楼は老朽化し、その後、鐘は下に降ろされたままにされたものらしい。
釣鐘
 鵯越共葬墓地は昭和21年に神戸市に引き継がれて、その後大規模な墓地開発がなされて今日に至っている。大仏のある展望台も昭和7年にできたもので、神戸の市街地から大阪湾、泉南地域まで遠望できるという。
 大仏さんは、この展望台から素晴らしい景色と共に、昭和、平成、令和の激動の世の中を見てこられたことになる。
鵯越大仏
鵯越大仏
鵯越大仏展望台 鵯越大仏展望台の展望
鵯越大仏展望台 鵯越大仏展望台の展望
史跡鵯越  鵯越大仏展望台から更に下って、鵯越墓園の南門に出てきた(11:05)。この南門の植込みの中には、史跡鵯越と刻まれた石碑が立っている(写真左)。石碑には、この辺りから義経が一の谷に攻め下ったと伝えられると記してある。ここで義経は、逆落としの算段をしたのだろうなどと思いをめぐらせながら、今日の山歩きを終えたのだった。史跡鵯越の石碑からは、道標に従い神鉄の鵯声駅まで下っていき、各駅停車の車両に座り込んだ。
史跡鵯越
●高尾地蔵尊
 高尾地蔵尊縁起:当山(高尾山)は、明治時代まで兵庫北部より神戸、大阪に通ずる山越街道で生活道でした。その昔、戦乱時に当山に辿りついた皇位の御老身が疲労と衰弱で松の根方に座され、今世の境の時、村人が二人通りかかり、水を乞われ、ご身分と氏名を告げ、「私をこの地に地蔵尊としてまつりくれ。念ずる者には目の病足の病を救い軽くする」と申され、御身分の証し品を村人に渡し、天に召された。村人は小さな堂を建て、地蔵尊と遺品を安置した。源義経が当山の松に馬をとめて地蔵尊に戦勝祈願して、一の谷へ(向かった。)松の木は、昭和30年頃まで生存するも、害虫にて枯れ死した。《地蔵尊の説明立札の記載による》
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