高安山から信貴山へ  関西の山【7-55】

近鉄信貴山口駅(9:25)==おお道越え==開運橋(10:24)==高安山レーダー(10:33)==高安山(10:38)
==高安城倉庫址(10:55)==空鉢護法堂(11:26)==朝護孫子寺(11:50)==とっくり吊橋(12:48)
==恩智峠(13 :34)==古い展望台(13:38)==ケーブル高安山駅(14:02)
(2024年4月20日 約4.5時間 約12.3km)(お勧め度★★☆) 
ROUTE MAP
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説明が青色文字の写真はクリックで拡大します。
 南北に連なる生駒山地の南に位置する高安山と信貴山の周辺には史跡が多く点在する。高安山は古代の要塞で、日本書紀に記載の高安城倉庫跡が残る。信貴山には戦国期の典型的な山城の跡が残っていて、聖徳太子ゆかりの朝護孫子寺もある。この歴史の舞台に数多く登場するエリアを今日(2024年4月20日)は巡ってみた。歴史のロマンにしたりながら春のハイクを楽しんだ。
信貴線の車両 信貴山口駅
信貴線の車両 信貴山口駅
 今日は近鉄電車に揺られて登山口(近鉄信貴山口駅)に向かう。大阪線に乗り込んで、河内山本駅で乗り換えのため下車。ここで信貴線の車両に乗り込む。信貴線は、河内山本駅から信貴山口駅までを結ぶ全長2.8kmの支線で、終点の信貴山口駅で西信貴ケーブル(西信貴鋼索線)に接続している。二両編成のかわいい車両だが、乗客は当方を含めて4名のみ。少し寂しい感じで改札を出た(9:25)。ここから、おお道越えルートで高安山を目指す。

 
「史跡の道」の道標 法蔵寺からの展望
「史跡の道」の道標 法蔵寺からの展望
 駅前から線路に沿った道を北に進む。八尾市が設置した「史跡の道」の石の道標で法蔵寺方面に向かう。すぐにある踏切を渡って東に方向を変える(9:27)。住宅と畑の中の坂道を登っていくと、進むにつれて坂道が急になっていき、法蔵寺の前で少し休憩を入れることにした(9:37)。このお寺の駐車場からの展望が素晴らしく、休憩にはもってこいの場所だ。西側に向かって大阪平野が一望できた。

 
イノブタに注意 「119番通報ポイント」の看板
イノブタに注意 「119番通報ポイント」の看板
 法蔵寺を過ぎるとさらに坂道が急になって山域に入っていくが、舗装路が続く。さらに進んで、「おおみちハイキング道」の道標があり、ここで舗装路が終わり本格的な山道になる。なお、ここには「イノブタに注意(八尾市みどり課)」の看板もある(9:42)。山道に入って竹が茂る薄暗い急登の道を登っていく。道中、八尾市消防署による「119番通報ポイント」の看板が何か所か設置してある。これは緊急時の場所特定に役立つ。

  
おお道越えルート  ジグザグに急登道をゆっくり、ゆっくり、登っていくと休憩所の看板が登場した(10:02)。急登でフラフラになり、休憩所まで行くエネルギー消費を抑えるため、そこは通過。休憩所分岐からは、ほぼ直登の更にきつい道になって、休憩所で休めばよかったと思うが後の祭り。急登道は展望がほぼないのでしんどさが増す。よく整備された道と周囲の鳥のさえずりを励みにして、一歩ずつ歩を刻む。
おお道越えルート
開運橋 生駒縦走歩道
開運橋 生駒縦走歩道
 直登道の途中で、「この奥、紅葉の名所」の看板があり、休憩を兼ねて進んでみた(10:17)。そこはモミジの木々が若葉のまぶしい緑を放ち、癒しのスポットになっていた。モミジで少し休憩を入れた後、また急登のおお道越えに戻り、先に進んで行く。やがて、高安山ショートカットコース分岐を過ぎ(10:19)、次に稜線が見えてきて開運橋の下に出た(10:24)。橋をくぐって生駒縦走歩道に出て、おお道越えルートを登り切った。おお道越えは八尾市が管理する高安山へ登る5つのコースのうちで一番急で、最も短時間で高安山へ登ることができるらしいが、急坂道の連続はきつかった。

  
高安山気象レーダー  生駒縦走歩道に出て、それを高安山の方に進む。開運橋から約5分で高安山気象レーダー観測所が見えてきた(10:33)。Wikipediaによれば、この気象レーダー観測所は、現在は無人化されて大阪管区気象台から遠隔操作されているらしい。
高安山気象レーダー
「高安城跡」の石碑 高安山
「高安城跡」の石碑 高安山
 なお、レーダー観測所の脇に八尾市によって「高安城跡」の石碑が建てられている。観測所の周辺は高安城の跡地が広がっていて、石碑の説明では、要旨「白村江の戦いの後、天智天皇によって百済領に進出した唐の勢力に備えるため、対馬国金田城と讃岐国屋島城と共にこの高安城が築城された。」とあった。西暦667年のことらしい。白村江の戦いは663年なので、短期間での突貫工事で造った山城だったのだろう。
 レーダー観測所から生駒縦走歩道を少し進むと左手側に踏み跡が分岐している。その踏み跡を、笹を分けて進んで行くと、そこに高安山の山頂があった(10:38)。

  
高安山の山頂 二等三角点:峰山
高安山の山頂 二等三角点:峰山
 高安山の山頂は、周囲に笹と雑木が茂り展望はない。細い木に私製の山名札が数枚ぶら下がっているだけだった。なお、山頂には三角点(二等:点名「峰山」)がポツンと設置されている。その写真を撮っていると、脇の笹から”ガサッ、ガサッ”と音が聞こえ、何かの気配を感じて身構えた。イノブタの出現かと目を凝らすと、笹からおじさんハイカーが飛び出してきた。バリルートのマニアの方のようだった。ほっとした気持ちで高安山の山頂を後にした。

 
近畿自然歩道の道標 十三峠方面の様子
近畿自然歩道の道標 十三峠方面の様子
 高安山の山頂から踏み跡を進んで生駒縦走歩道に出て少し進むと、高安城倉庫址分岐に至った(10:41)。ここには近畿自然歩道の道標があり、生駒縦走歩道を歩いてくる多くの者はその道標が示す十三峠の方に左折して進んで行く。しかし、当方はこれから信貴山に向かうので、この分岐を直進して高安城倉庫址方面の道標に従う。

 
信貴生駒スカイラインを横断 高安城倉庫跡分岐
信貴生駒スカイラインを横断 高安城倉庫跡分岐
 高安城倉庫址方面に進むとすぐに左手側に階段道が分岐する。階段は久安寺高区配水場に突き当たるので、この分岐は右に進むと本格的な山道に入る。少し進んで信貴生駒スカイラインの車道と交差する(10:51)。車に注意してスカイラインを渡って、山道をさらに下っていくと「←高安城倉庫址」の道標が登場した(10:53)。ここで分岐に入り高安城倉庫址に進んでみた。

 
高安城倉庫跡 倉庫跡の礎石
高安城倉庫跡 倉庫跡の礎石
 すぐに、1号倉庫址が登場し、2号、3号と進んで行く。3号倉庫址は見事に倉庫の礎石が並んでいた(10:55)。この礎石群は、昭和53年に市民グループによって発見され、この発見により高安城の文献の記載がはじめて確証されたものらしい。倉庫には、穀と塩を蓄えて非常時に備えたとの説明板があった。なお、3号倉庫址は展望も素晴らしいところで、礎石の先に、平群・大和の平地や生駒の山々が見渡せた。

 
 高安城倉庫址で歴史に浸るひと時を過ごした後、信貴山に向かう山道に戻って、よく歩かれた道を下っていく。このあたりで、ソロのハイカー3名とすれ違う。挨拶をかわしながら、歴史ファンの方なのだろうと勝手に想像する。山道の傍らには朝護孫子寺方面を示す古い道標も立っていた。 信貴山への山道
信貴山への山道
弁財天の滝分岐 奈良盆地方向に展望
弁財天の滝分岐 奈良盆地方向に展望
 その古い道標から5分下ったところで、弁財天の滝方面の道が右に分岐している(11:12)。そこは鞍部になったところで、ここから山道は信貴山城跡に向かって登り返しになる。檜林の中の道を登っていくと「松永屋敷」への道標が掲げてある。松永屋敷への道は左へ下っているが、ここは登りの道を選択する。次に「立入屋敷」の説明看板が立つ場所に至る(11:20)。ここは広い削平地のようだが、檜の林で実態がわかりにくい。「立入屋敷」の先でコンクリの車道に出て、それをつづらに登っていくと展望のある削平地に登り着いた。ここは主郭の曲輪の一部らしく、奈良盆地方向に展望があるので休憩中のハイカーが複数いた(11:25)。

 
信貴山城址 朱塗り鳥居
信貴山城址 朱塗り鳥居
 もう一段上に登ると「信貴山城址」の石碑が立つ場所になる(11:26)。ここから更に信貴山の山頂を目指して朱塗り鳥居の下を登っていくと、信貴山頂の空鉢護法堂に至る。ここは、巳の姿(竜神、難陀竜王)で出現される空鉢護法の神を祀っているところで、一願成就の守護神として多くの参拝客を集める。ハイカーだけでなく、一般の参詣者も多い。その参詣者の方々は、みな手に水を入れたポットのようなものをぶら下げて登ってきている。何なんだろうと調べてみると・・・、

 
空鉢護法堂  ・・・この空鉢護法堂は、信貴山頂にあるお堂なので水道設備が整っていない。そこでご参拝の者は麓の朝護孫子寺本堂そばの水屋に備え付けのアルミ製の水桶に水を入れてお参りするのがしきたりらしい。
空鉢護法堂
空鉢護法堂の展望1 空鉢護法堂の展望2
空鉢護法堂の展望1 空鉢護法堂の展望2
 そうとは知らず手ぶらで登ってきてしまったことをわびながら、数多いお堂にお参りした。なお、空鉢堂からの景色はなかなかのもので、河内平野から大和平野方向に展望が広がる。ぐるっとお堂を回りながら景色を楽しんでいると、あっという間に時間が過ぎてしまった。そろそろ朝護孫子寺本堂の方に下っていくことにする(11:37)。

  
信貴山雌岳 朱塗りの柵
信貴山雌岳 朱塗りの柵
 空鉢護法堂から朝護孫子寺までは約700メートルに及ぶ九十九折りの厳しい山道が続く。空鉢護法堂への参詣者とすれ違いながら朱塗りの柵に沿って坂道を下っていく。その途中で、信貴山雌岳の道標が目に入った。そこは信貴山城の屋敷があったところのようなので、踏み跡に従い雌岳に登ってみた(11:42)。雌岳は尾根上の細長い削平地で、側面はかなり急な斜面になっていた。削平地は植林の林で展望は望めないところだった。早々に雌岳を後にして、朱塗りの柵に沿って下の朝護孫子寺に降りていくことにする。

 
朝護孫子寺に下ってきた トラのポスト
朝護孫子寺に下ってきた トラのポスト
 やがて朝護孫子寺の境内に下り着いた(11:50)。どこから聞こえてくるのか読経の声が境内に響き渡っている。厳かな感じで、”・・・かたじけなさに涙こぼるる”感じだった。複数の塔頭寺院(成福院、千手院、玉蔵院)と一体となった広い境内をお参りしながら一巡して本堂に至る。

 
本堂からの展望  本堂は舞台造りで、そこから周囲に点在するお堂や新緑に彩られた境内を展望した。真っ暗な回廊を進む「戒壇巡り」も体験して、さらにありがたい気持ちになった。
本堂からの展望
朝護孫子寺境内 世界一福寅
朝護孫子寺境内 世界一福寅
 本堂から下って大寅のところにやってきた。信貴山は何といってもこのトラのイメージが強い。「世界一福寅」で写真撮影の参詣者が列をなしていた。「今から1400余年の昔、聖徳太子がこの山で毘沙門天王をご感得され、大変にご利益をいただかれましたのが寅の年、寅の日、寅の刻であったといわれています。その故事から、信貴山の毘沙門さまに寅の縁日にお参りすると、聖徳太子にあやかって良いご利益を授かるとして昔から信仰を集めてきました。」(信貴山朝護孫子寺のHPより)

 
開運橋 とっくり吊橋
開運橋 とっくり吊橋
 大寅を過ぎ、朝護孫子寺を後にした。ここからは、この地域にある三角点(四等三角点:南畑)を訪ねてから西信貴ケーブルのケーブル高安山駅を目指したい。
 大門池に架かる開運橋を渡る。名物の開運バンジーは誰もいなくてひっそりしている。橋を渡ったところでおいしそうなよもぎの焼き餅が目に入った。あっつあつの餅を買い求めて少し休憩。開運橋からは車道を進んでとっくりダムに向かう。ダムには”とっくり吊橋”が架かっている。結構揺れるが楽しく渡った(12:48)。そこで山道のとりつきを探すと、少し東に進んだところでそれを発見(12:52)。

 
谷会橋 信貴フラワーロード沿いの山道
谷会橋 信貴フラワーロード沿いの山道
 山道に入って坂道を登ると「谷会橋」で信貴フラワーロードの車道を渡る(12:55)。ここで山道を右折して、ほぼ信貴フラワーロードに沿って西に進む。よく歩かれた山道を進んで行くと、やがて信貴山のどか村が見えてくる。ここは味覚狩りやフィールドアスレチックなどがある農業公園で子供たちのにぎやかな声が聞こえている。

 
三角点を発見 四等三角点:南畑
三角点を発見 四等三角点:南畑
 信貴山のどか村に出たところで当方は三角点の探査に架かる。信貴フラワーロードの近くに高圧鉄塔が二本並んでいて、三角点はその近くにあるはずだ。三角点の巡視路の踏み跡をみつけ、それに入っていく。巡視路に入って北側の鉄塔の周りを探索すると、細竹の藪で三角点を発見した(13:13)。細い竹が繁茂した中にポツンと南畑四等三角点が設置されていた。

 
赤鳥居から山道へ 恩智峠
赤鳥居から山道へ 恩智峠
 南畑四等三角点からは西信貴ケーブルの高安山駅を目指す。信貴山のどか村のところで車道(信貴フラワーロード)はT字路に突き当たる。ここで車道を離れ赤い鳥居のところから林道のような広い山道に入る(13:23)。歩きやすい広い道をひたすらに歩いていくと、木製の古い階段があるところで山道が分岐した(13:34)。この分岐地点が恩智峠と思われ、恩地越えで高安山に向かうルート(恩地越え道)がここで合流している。

 
古い展望台 霊園沿いの道
古い展望台 霊園沿いの道
 崩れ落ちそうな木製の階段を登ってさらに山道を進むと高安山霊園沿いの道になって古い展望台にたどり着く(13:38)。この展望台は老朽化で使用不可となっていて上には登れない。展望できない展望台を過ぎ、四天王寺高安山霊園、信貴山公園墓地と霊園沿いの道を延々と進む。この一帯は山一面が霊園で、その広大さに圧倒される。

 
信貴越え道分岐 高安山バス停
信貴越え道分岐 高安山バス停
 墓地沿いの道は近畿自然歩道で、その道標で「信貴山公園墓地横を通って高安山方面→」に進んで行くと、信貴道ハイキング道の道標で道が分岐(13:49)。この分岐は岩戸神社の方に下る道(信貴越え道)。ここはまっすぐ進んでさらに墓地沿いの道を歩き、やがて車道に合流すると、その先がバス停(近鉄バス信貴山上線高安山バス停)だった(14:02)。

 
西信貴ケーブル車両 ケーブル車窓より
西信貴ケーブル車両 ケーブル車窓より
 バス停の先が近鉄西信貴ケーブル高安山駅で、駅舎には人けがない。まだケーブルカーの発車には時間があるので駅のそばにある展望台に登ってみた。「ごじゅうからガーデン」と名付けられた展望台からは大阪平野が一望だが今日は霞がかかって景色は今一つだった。やがてケーブルの時間(14:25)になって車両(コ7形:しょううん号)に乗り込んだが乗客は4名だけと寂しい感じ。車両の前方の窓から景色を楽しみながらケーブルで高安山を下山。往路と同じ近鉄電車信貴線に乗り込んで帰途についた。
● 高安城址倉庫礎石群:西暦660年、唐と新羅は連合して百済を攻め滅ぼした。救援を求められた斉明天皇や皇太子中大兄皇子は九州へ向かったが、天皇は九州で急死、百済へ向かった日本の水軍も白村江の戦いで唐の水軍に完敗した。この緊迫した状況のもと、天智天皇は六六七年、近江大津宮に遷都、その一方、ここ高安山に高安城を築いた。対馬の金田城、九州大宰府を守る大野城や基肄城、瀬戸内の屋島城などと並ぶ日本防衛のための大規模な古代山城である。高安城には築城後、畿内の田税である穀と塩を蓄え、非常時に備えたが、六七二年の壬申の乱で倉庫は炎上、その後天武・持統天皇の時代に修築され、文武天皇の七〇一年に廃城となったと、『日本書紀』や『続日本紀』に見える。(高安城跡倉庫礎石群の説明板より抜粋)
 ● 信貴山城:信貴山城は東西550m、南北700mにわたって広がり、城域は雄岳地区、縦岳地区、北尾根地区の3つに分けることが出来る。急峻な切岸を中心に防御し、要所には土塁や石積み、掘、複雑な出入り口などを設けた奈良県最大級の山城である。永禄2年(1559年)、三好長慶の重臣、松永久秀が入城し、 大和国支配の拠点とした。天正5年(1577年)、織田信長と対立した久秀は信貴山城に籠城したが、織田勢に攻撃され自害した。(信貴山城跡保全研究会・奈良大学千田研究室の現地案内看板から抜粋) 
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