志久道・中山大杣池・西鹿見山 (お勧め度★★☆) 丹生山系【6-9】

昔からの哀歓のロマンと懐かしい峠道の面影を今尚とどめているという志久道と、
コバルトブルーの湖面を擁する中山大杣池を訪ねてみた。

Route MAP
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説明が青色文字の写真はクリックで拡大します。
 「とうげ」という言葉は、山に憧れ、旅を慕う者の心に、親しみと郷愁と希望が入り混じった響きを伝える。峠道には、それを作った人間のさまざまな情感が刻み込まれている。その、昔からの懐かしい面影を、志久ノ峠道は今なおとどめている。
 多田繁次さんの言葉である(「北神戸の山やま」神戸新聞出版センター)。
 日常の喧騒を逃れ、懐かしい面影を求めて、今日(平成21年6月7日)は、その志久道を歩いてみようと思う。
箕谷から稚子ケ墓山方面を望む
箕谷から稚子ケ墓山方面を望む
大滝口辺りの風景  志久道へ入るには、神戸電鉄の箕谷駅を起点とするのが一般的とされる。神戸市北区作成のハイキングレクリエーションガイドにも、箕谷駅、大滝口、柏尾台、肘曲りから志久峠、中山大杣池に至るコースが紹介されている。
 今回は、概ねそのガイドに従って、箕谷から志久峠を越えて中山大杣池まで進んで行こうと思う。
 9:35に箕谷駅をスタート。有馬街道の下をトンネルで潜り、北側に抜けると前方に丹生山系の山々が見えてきた(写真上)。
大滝口辺りの風景
 山田川沿いに続く車道を北に進む。
 青葉台への分岐を過ぎ(9:45)、大滝口の交差点までやって来た。
 交差点を右折し、橋を渡って更に北に進む。
 辺りはのどかな田園風景である。昔からの懐かしい面影がこの辺りにはまだ残っている。田植えを終わった田んぼの後方には稚子ケ墓山辺りであろうか、丹生の山々が静かに座している(写真上)。
 ふと後方を振り返ると、大滝口の交差点の南側に、山と対等に組するかのように大きなマンションが立っていた(写真右)。山田の里の静けさと対照的である。
巨大なマンション
巨大なマンション
柏尾台に続く高架道  志久道は柏尾台の住宅地の裏から始まる。
 その柏尾台へは、大滝口から立派な車道がつけられている。緩やかにカーブして続く高架の車道は、昔からの古い集落のはるか上を、まるでひとっ飛びするかのように越えていた(写真左)。
 その高架の車道から右下をのぞくと、深い緑の木々の茂りの中に社が確認できた。これはお参りしていかなければと思い、高架から下って行った。天津彦根神社であった(写真下)。そこには古い農村歌舞伎の舞台も残されていた。
柏尾台に続く高架道
 この歌舞伎舞台は、舞台名を原野八王子という人形舞台であったという。
 その昔、農家の人たちにとって、この農村歌舞伎は、厳しい農作業の合間の、少ない娯楽の一つであったであろう。
 老朽化して傷みの激しい舞台からは往時の賑やかさは感じられないが、何とか、先人から残された伝統を残していこうとする、現在の人々の意気込みは、伝わってくるような気がした。
天津彦根神社
天津彦根神社
柏尾台の住宅地  神社からまた車道に戻り、柏尾台の住宅地に入ってきた(写真左)。
 ここは一区画の敷地面積が相当広く、高級住宅地の様相であるが、空き地が多いのは寂しい感じだ。
 ところで、この住宅地の東のはずれには、志久道について記録された石碑がある。志久道を歩くに当たって、その石碑の内容を確認しておかねばと思い、住宅地の中を東に進んで行った。
 石碑(写真下)には次の記載があった。
柏尾台の住宅地
 志久道のこと
 この道路は志久道といって、山田町から淡河町に通じる古道の一つです。南へは大原山(今の大原中学の辺)、西小部、鈴蘭台、烏原谷を経て神戸へ通じていました。
 昔は宿越とも呼ばれ、今も残る石畳道や茶屋の跡、旅人の安全を祈り、弘法大師や大日如来などが祀られており往時を偲ばせてくれます。宅地造成以前は団地のほぼ中央を南北に走っていましたが、団地造成の際に、ここに付替えたものです。
 平成7年2月吉日
志久道のこと
志久道のこと
志久道が始まった  この石碑の北側にコンクリートの階段があり、そこを登り切ったところから山道が始まっている。先程の石碑によると、この道が柏尾台の団地が造られたときに新たに付け替えられたもののようだ。
 付け替えられたものとはいえ、そこから志久道が始まることには変わりない。
 そこで、一気に階段を上り、山道に踏み込んだ(10:20)。
 その道は、踏み跡はしっかりとついているが、あまり人は入らないようで、荒れた感じだ(写真左)。道を遮る草木を交わしながら付替え道をどんどん北に進んだ。
志久道が始まった
 柏尾台の住宅地の北側には、昔からの田んぼが数枚残っている。
 団地造成のため新たに付け替えられ志久道は、ちょうどこの田んぼの北側辺りで、その田んぼからやって来た道と合流した(10:40)。ここからが古来よりの志久道となる。
 その志久道は、大小の石ころが散乱する歩き難い道であった(写真右)。
 志久道は、その昔、石畳できれいに整備されていたが、モトクロスバイクと水の流れの変化で石が崩れてしまい、現在のような歩き難い道に変貌したという。
志久道の石畳
志久道の石畳
肘曲り  志久道では昔の石畳が綺麗に残っている箇所も一部(10mほど)あったが、概ね石ころで歩き難い道が肘曲りまで続く。
 肘曲りには10:59に到着(写真左)。ここで、稚子ケ墓山から下ってきた10名を超えるパーティーに遭遇した。
 丹生山系では丹生山、帝釈山辺りを除き、あまりハイカーに会うことは少ないので、この大パーティーに少々驚く。
肘曲り
 肘曲りでは古いものから新しいものまでたくさんの案内表示が立てられている。この案内に従いさらに志久道を北に進む。
 肘曲りから10分程進んで花折山方面への道(丹生山系縦走路)が右に分岐していった(11:10)。
 ここには「志久峠1km」の表示がある。今まで続いていた石ころ道もこの花折山分岐点で終了する。
 ここからは、歩きやすい幅広の緑のトンネル道となる。
志久道
志久道
牛つなぎ松  花折山分岐点を過ぎ、緩やかな登り道を少し進むと道が下りとなった。ここがどうやら一つ目の峠のようだ。
 ところで、神戸市北区作成のガイドマップによると、志久道には峠が3ヶ所あると表示されている。南から志久峠、梨木峠、そして中ン峠である。
 そして、一番南の峠が宿ノ嶺(しゅくのとうげ)とよばれ、それがいわゆる「志久峠」ではないか・・と説明されている。そうするとガイドブックに言う志久峠がここなのかもしれない。しかし、ここには何らの案内表示もなく、峠であるかどうかも定かでない。
牛つなぎ松
 志久峠らしき所を越え、少々進むと、少しだけ石畳が残されている場所があった。石畳を見ていると、この志久道の歴史を感じることができる。
 さらになだらかな上り下りの続く志久道を進んで行くと、また峠状の場所にやって来た。そこには大きな松の木と、近畿自然歩道を示す表示が立っていた。そして、松の木には「牛つなぎ松」なる表示が掲げられていた(写真右 11:28)。
 その昔、牛に荷物を積んで峠道を往来した村人達が、ここで木に牛を繋ぎ、「ちょっと一服」した場所なのであろう。なお、ここが、北区のガイドブックに言う「梨木峠」かもしれない。
牛つなぎ松を示す表示
牛つなぎ松を示す表示
中ン峠(志久峠)  牛つなぎ松を越え、さらに、なだらかな下りとなだらかな上りを経て、また峠にやって来た(11:38)。こそは今までの峠と異なり、いかにも「峠」という雰囲気のする場所である(写真左)。
 その峠には、「中ン峠」の表示と共に、冒頭に記した「峠という言葉は、山に憧れ、旅を慕う者の心に・・・・」との、多田繁次の言葉が紹介されていた。
 ここが一般には「志久峠」とされているようで、近畿自然歩道を示す表示も立てられているが、先程も記した通り、宿ノ嶺とよばれる一番南の峠が真の「志久峠」のようである。
中ン峠(志久峠)
 摂津と播磨の国境でもあった中ン峠を越え、緩やかな下りの志久道を進んで行くと、左手側にピクニック広場分岐の表示が現れた(11:53)。
 0.2kmとの表示もあったので、そのピクニック広場なる場所を確認してみることにした。
 しかし、ものの3分も進まないうちに、山道は忽然と藪の中に消えてしまった。
 従前、広場として整備されたのであろうが、その後手入れもされず、忘れさられたのだろう。そこからは、場当たり的な行政のスタンスが見えてくる。
志久道を示す表示
志久道を示す表示
中山大杣池  また、志久道(写真上)に戻り、次に中山大杣池を目指すことにする(11:59)。
 感じの良い志久道を10分程進み、中山大杣池に到着した(12:10)。
 中山大杣池は1300年以上も前に造られた兵庫県最古の人造の池である。農家の人たちの手により何年もの間守られてきた中山大杣池はまさに自然に溶け込み、周りの緑と一体になっていたという。
 その後神戸市により、神戸青少年公園として整備され、現在はデイキャンプ場などが造られている。今日もそのキャンプ場からは多くの子供達の元気な声が聞こえていた。
中山大杣池
 中山大杣池の周りはアスファルトの車道が回っている。それに従い左から池を半周し、池の北側の冒険広場までやって来た。
 この辺りには、未到の三角点(中山三等三角点)が存在するはずである。さっそくその探索にとりかかる。
 何重にも柵で仕切られた冒険広場の斜面を北に登っていき、その一体の中のピークと思われる地点を目指すと、あっけなく三角点に行き当たった(写真下、右下)。
神戸青少年公園
神戸青少年公園
三角点 冒険広場裏の三角点
三角点 冒険広場裏の三角点
 三角点も発見したので、また湖畔に戻り、昼食のおにぎりを頬張ることにした。
 中山大杣池周辺のキャンプ場などの施設では、子供達が賑やかに飛び回っているが、池の湖畔は驚くほど静かである。湖面を眺める人影は一切ない。この対照的な感じはなんなのであろう・・・と考えながら昼食を終えた。
 さて、帰りはどのコースを辿ろうかと考えた末、林道中山線から天保池を経て兵庫カンツリーゴルフ場に至り、柏尾谷を箕谷まで下ることにした。
林道中山線のガードレール
林道中山線のガードレール
西鹿見山の登り口  中山大杣池から林道中山線へ入るところには多くのモトクロスライダーが休憩していた。バイクの間を通り抜けて林道に入り、しばらく進んで異様な感じの風景に気が付いた。木々が茂る林道の端にガードレールが続いているのだ(写真上)。このガードレールの内側には直径20センチはある松が生えている。このことから、ガードレールの設置は、もう何十年も前であったであろうことが窺われる。その昔、砂防ダム工事か何かのため、この林道を車が行き交ったのであろう。
 その後、何ヶ所か登場した緑の中に埋もれつつあるガードレールが、時の経過を教えてくれていた。
西鹿見山の登り口
 緩やかに上る林道中山線を進み、天保池に至った(13:31)。天保池の静かな湖面を確認して、また林道中山線に戻った。
 林道にはぬかるんだ場所もあり、足をとられないよう注意して進んでいると、古い車が乗り捨てられた箇所に至った。
 そこを過ぎると幅広であった林道は終わり、斜面を登る細い道となった。ここにもバイクの轍痕が続いている。
 やがて、西鹿見山の登り口でもある、手押し車が置き去りにされた場所に到達した(写真上 14:07)。今日は西鹿見山の頂上を確認してみようと思い、山裾からかすかな踏み跡を伝い斜面を登ってみた。
西鹿見山の頂上か??
西鹿見山の頂上か??
柏尾谷池  ルートには古いテープ表示があり、コンクリートの小さな標柱も続いている。
 急な傾斜を汗をかきながら上っていくと、石が積まれてやや開けた感じの場所に至った(写真上)。
 ピークはまだ先のようだが、ここから先は踏み跡がない。すこし進んでみたが、薄暗くて落ち葉の深く積もった一帯は、あまり歩いていても面白くない。そこで、先程のやや開けた場所に戻ってくると、下から誰か登ってきた。少し驚いたがどこにも同好の志はいるものだ。その方は更に先まで進んでみるのだという。当方は、ここを一応西鹿見山の頂上とすることとし、その方とお別れした。
柏尾谷池
 西鹿見山からはアスファルト道をゴルフ場の淵にそって進み、柏尾谷を下ろうと思ったが、どうやら柏尾谷の入口を見落としたようで、柏尾谷池までやってきてしまった(写真上)。
 柏尾谷池では数名のパーティーがバーベキューを楽しんでいた。
 柏尾谷池から車道に戻り、鰻の手池までアスファルト道を進み、その先の林道が左に分岐する地点までやってきた(15:31)。
 その分岐点から、細い山道が南東方向に延びている。今日はその山道に入り、花山駅の辺りを目指して下ってみることにした。
上谷上に降りてきた
上谷上に降りてきた
谷上から双子山を望む  花山駅の北側の山中には、その昔は利用されていたであろう山道が縦横にはしっている。その中の一つを下っていると、どこかで方向を間違えたか、途中から道は南西に向かって下り始めた。花山駅から離れ、谷上の方に向かっている。登り返すのも癪なので、そのまま下ると、車の乗り捨てられた箇所を経た後、上谷上の集落に下りてきた(写真上)。
 集落の人に聞くと、花山へは分岐を左に行くのだという。やはり、どこかで間違えたようだ。今日は道間違いもあったが、色々探検できた1日だった。(上谷上からは左手前方に双子のように立つ双子山が見えていた。写真左)
谷上から双子山を望む
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