稚子ヶ墓山・帝釈山 (お勧め度★★☆) 丹生山系【6-21】 |
歴史の道が残る丹生山系の最高峰は稚子ヶ墓山で、低山(596m)ではあるが明石海峡から淡路島が一望できる。稚子ヶ墓山には、天正年間の三木合戦で秀吉軍の焼き討ちにあい哀れな最期を遂げた稚子たちの史跡が残る。今日(令和3年2月14日)は、今なお静けさを保つ稚子ヶ墓山から帝釈山を周遊してみた。 |
神戸電鉄で箕谷駅までやってきた(写真左 8:15)。改札を出て、駅から北側に下って行く。すぐに箕谷駅前交差点となるので、ここで右折する。次に国道428号(有馬街道)が見えてくれば、その手前で、細い道を左に入る。この細道は有馬街道の下をくぐって北に抜ける道となっている。その先、箕谷川沿いの細い舗装路を進むと、再び国道428号に突き当たる。 | |
神戸電鉄箕谷駅 | |
突き当たった国道428号で左折する。国道には「箱木千年家・六條八幡宮(山田民俗文化保存会)」の道標があるので、その道標の方に進む(写真左 8:23)。なお、山田民俗文化保存会の道標のそばには、大きな「山田町遊歩道マップ」があるので、丹生山田の里の散策には、このマップを参考にするといいだろう。また、山田町遊歩道マップの先には、コンビニ(ファミマ)があり、ここで食料を調達をすることができる。 | |
道標がある国道428号 | |
志染川沿いとなった国道428号の歩道を箱木千年家の方に進むと青葉台口バス停(8:26)があり、次に、柏尾台口の交差点となる(8:32)。ここで右折して、柏尾台に向かう車道に入る(写真右)。すぐに志染川に架かる新大滝橋を渡る。この橋の上から、左手側前方に、本日登頂予定の稚子ヶ墓山など、丹生山系の山々の連なりが見えてくる。 | |
柏尾台への車道 | |
柏尾台に向かう車道は、その先、柏尾谷川を跨ぐ新柏尾橋の手前で大きく左折する。そして、橋を渡ったところの右手側に原野天津彦根神社の建物が見えてくる(8:42)。ここで、今日の山歩きの無事を祈って、神社にお参りしていくことにした。車道から、天津彦根神社境内に下って行くと、境内こは原野八王子市民公園の表示があり、すべり台などの遊具の設置があった。また、古い農村歌舞伎の舞台も残っていた。それらから、この神社が古くから地域の方々の集いの場であったことが窺がわれた。 | |
天津彦根神社の歌舞伎舞台 | |
天津彦根神社から車道に戻り、柏尾台の住宅地に入っていく。柏尾台は、神戸市北区のビバリーヒルズとも呼ばれるらしく、洒落た建物が立ち並ぶ。ネットで調べると、ここは1990年代から分譲が始まったようで1区画の平均敷地面積は150坪もあるらしい。そんな豪華な建物をながめながら、住宅地の中の広い車道を北に向かって登っていく。 | |
柏尾台 | |
車道は住宅地の北端で公園(大塚山北公園)に突き当たる(8:59)。この公園の右側に山道の入口があって、太陽と緑の道の道標も立つ。この山道は、神戸市北区山田町原野と淡河町中山を結ぶ古道で「志久道」とよばれる。志久道は淡河から神戸に出る最短コースとして往時には多くの利用があったとされる。 | |
志久道の取付き | |
志久道に入ると最初は舗装路だが、その先で石がゴロゴロと転がる歩きにくい道になる。往時の志久道は石畳で整備されていたが、時の経過と雨風で荒れ果て、石畳の石が散乱してしまった。一部の箇所では、石畳のきれいな姿が残っていて面影がしのばれる。 | |
志久道の石畳 | |
歩きにくい石ころの坂道を登っていくと、道標がにぎやかに立つところで山道が左右に分岐する。ここが「肘曲り」と呼ばれる場所で(写真右 9:30)、志久道は肘曲りから右に登っていく。一方、稚子ヶ墓山へは、肘曲りを左に進む。稚子ヶ墓山への山道は、小さな流れに沿ってしっかりと踏まれた道が続くが、石の転がる歩きにくい箇所もあり、注意して登っていく。 | |
肘曲り | |
肘曲りを左折して、稚子ヶ墓山への山道に入る。稚子ヶ墓山への山道は、小さな流れに沿ってしっかりと踏まれた道が続く(写真左)が、石の転がる歩きにくい箇所もあり、注意して登る。途中、大きな倒木が道を塞ぐ場所があり進路に迷うが、よく確認すると先人により巻道の踏み跡が付けられている。 | |
稚子ヶ墓山への登り道 | |
小さな流れが次第に涸れ沢になって、次に山道が沢から離れて左折すると、古い「太陽と緑の道」の道標の立つ場所となる。ここで山道はV字に切り返す(9:47)。V字に切り返すとすぐに分岐点になる。ここにも古い「太陽と緑の道」の道標が残る(写真右 9:51)。この分岐で南に下ると、みのたにグリーンスポーツホテル「銀河の湯」に行けた記憶があるが、今でも山道が残っているのかは分からない。銀河の湯分岐から右折して、更に山道を登っていく。 | |
銀河の湯 分岐 | |
次に、トラロープのある急登が登場する(写真左 9:54)。その先、またロープの急登道になる(9:57)。この辺りは、急登が連続する。更に、雑木の中の急な山道を登っていくと小ピークに登りついた(9:57)。この小ピークは展望も何もないので、そのまま通過する。 | |
稚子ヶ墓山の急登 | |
小ピークから一度下って登り返しになると、またまたロープのある急登道が登場する(10:03)。この急な、山道を登り切ったところが稚子の墓とされる山頂だった(写真右 10:07)。ここには、稚子墓山伝説遺跡の古い標柱とともに、小石が塚のように積まれている。その塚の脇には椿の木があり、「伝説の椿を守ってください」の標示がある。 | |
稚子墓山伝説遺跡 | |
傍らに椿についての謂れが説明されていた。 「天正七年、秀吉軍が明要寺を焼き討ちした時に命を絶たれた稚児たちをこの地に葬り、椿を植え冥福を祈ったとされています。長年、椿は枯れたままでしたが、平成元年に山田民俗文化保存会によって植樹されました。」 あいにく、椿に花弁は確認できなかったが、稚児の墓に手を合わせて冥福を祈った。 |
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稚子ヶ墓山の展望 1 | |
稚子墓山伝説遺跡からは、南側に展望が広がる。麓の山田の里の風景や、六甲の山並み、その向こうには淡路島まで、霞の中に浮かんでいた。 稚子墓山伝説遺跡から展望を楽しんだ後、稚子ヶ墓山の山頂に向かう。よく歩かれた山道を少し西に進むと、すぐに稚子ヶ墓山に到着した(写真下 10:13)。 |
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稚子ヶ墓山の展望 2 | |
稚子ヶ墓山は雑木の中で、展望はない。保護石に囲まれた三角点があり、その横に稚子ヶ墓山の謂れが説明された看板が設置されていた。 「羽柴秀吉の三木城攻めのさい、丹生の僧兵が別所方に味方した為、全山が焼き討ちにあい、その時死んだ侍童、稚子を葬ったものという伝説があります。」 |
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稚子ヶ墓山 | |
戦国の世、ここでも激しい歴史が展開され、それを、しばしの時間、思い偲ぶことができた。 なお、稚子ヶ墓山の読み方については、神戸市の自然歩道「太陽と緑の道」コースNo.16の案内図に「ちごがばかやま」とフリガナがふられているので、その読みが一般的と思われる。 参考 神戸市のHPの案内図 |
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稚子ヶ墓三等三角点 | |
稚子ヶ墓山には5分程滞在して、次に帝釈山に向けて出発した(10:18)。山道はすぐに下りになる。そして、その下りはロープの張られた急な下りへと変貌する(写真左)。ここは落葉の堆積もあって滑りやすいので注意して足を運ぶ。その先、一度、傾斜は緩むが、またロープの急下りの箇所となる。ここも、滑りやすいので注意して下る。 | |
ロープの急下り | |
二度のロープ場を経て、稚子ヶ墓山を下ってきたところで古い道標の立つ分岐となる(写真右 10:23)。ここで分岐を左折して南に下って行くと、国道428号を越えて岩谷川、六條八幡神社の方に下っていける。古い道標にも「無動寺」の表示があるのでその道が案内されてるが、今は廃道寸前となっている感じだった。なお、この分岐には通報プレート「き93−9」がある。 | |
岩谷川への分岐 | |
岩谷川への分岐から双坂池の方に下って行く。すぐに斜面にへばりつくような道になり、右側が切れ落ちている。ここは滑り落ちないように注意して進む。その先、緩やかな下りの次にガレた道になる。石のごろつく急な下りで、石車に乗らないようにしたい。ガレた道を下りきると、そこは双坂池の湖畔だった(写真下 10:45)。 | |
稚子ヶ墓山のガレた下り | |
双坂池に出たところには太陽と緑の道の古い道標が残っている。その道標で、丹生山、帝釈山と表示された方に進む。双坂池は冬空の下、陽光を照り返してキラキラと光っている。その水面を見ながら、ガードレールの道を進んでいくと、やがて国道428号線に飛び出す(10:52)。 | |
双坂池 | |
国道428号線はたまに車が猛スピードでやってくるが、車道脇に歩行スペースがあるので、安全は確保できる(写真右)。国道428号線の緩やかな坂道を登っていくと、やがて車道が大きく右にカーブする場所になる。その右カーブの手前で、道路の左手側に茶色いアンテナ設備のような構築物が確認できる(写真下 10:58)。この少し先が岩谷峠と言われるあたりで、このアンテナ設備の所が帝釈山への登山路の入口となっている。 | |
国道428号線 | |
NTTドコモの設備 | 帝釈山への道標 |
このアンテナ設備はNTTドコモの設備で、「神戸北山」の表示がある。また、アンテナ設備の脇に立つ桜の木に「太陽と緑の道」の道標があり(写真右上)、帝釈山、丹生山の方向が案内されていた。その道標に従い、帝釈山の方に登っていく。帝釈山に向かう山道はよく歩かれた山道で、快適に進める(写真右)。 | |
帝釈山への山道 | |
NTTアンテナ設備から歩きやすい道を登っていくと、すぐに十字路のような場所に出た(11:02)。帝釈山へはここで左折する。なお、地形図の表示によれば、ここで直進のルートは破線の道で、淡河に下っていけるようだが、今は薮道かもしれない。十字路からも、歩きやすい道が続く。古い丹生山系縦走路の道標が随所に残るので、このあたりは昔からよく歩かれている道ということがわかる。 | |
丹生山系縦走路の道標 | |
更に、UP、DOWNを繰り返しながら、歩きやすい道を登っていくと、道脇にケルンが積まれていた(写真右 11:16)。ケルンの少し先でロープの急登が登場(11:20)。その先、10分弱で、こんどはロープの急下り(11:29)。この下りは常緑樹の密集した森で薄暗い。 | |
山道脇のケルン | |
常緑樹の薄暗い道の先で、急登道が始まった。急登の途中でロープも登場し、延々と急な登り道が続く。少し休憩を挟んでいると、上から二人のハイカーが下ってきた。本日、山中で初めて人とお会いした。丹生山系の道は、登山者は少ないと思っていたので少し意外だった。更に急登が続き、10分くらい坂道を登り続けた先で、帝釈山に登りついた(11:48)。 | |
帝釈山の登り道 | |
帝釈山の山頂で、更に、意外な展開が待っていた。帝釈山の山頂は、複数のグループで総勢15〜16名のハイカーでごった返した状態になっている。ちょうど、昼の時間であったことから、皆さん、弁当を広げて山談義でおおにぎわいだった。帝釈山は南側に遮るものがなく、展望に優れるが居場所の確保は困難で、蜜の状態でもあり、帝釈山の山頂は通過せざるを得なかった。 | |
帝釈山の展望 | |
雑木の中を下る | 丹生山への道標 |
帝釈山で南側の展望の写真を写した後、丹生山の方向に下り始めた。丹生山へ向かう山道は、明るい雑木の中の道で、歩きやすい。(写真上、右上)。この雑木の道でも帝釈山に向かうハーカーやRUNの人とすれ違った。帝釈山から丹生山にかけての山道は歩きやすい道なので、人気のコースということなのだろう。やがて、帝釈山から15分程進んだ所で、切通し (きりどおし)の十字路に出てきた(写真右 12:08)。 | |
切通しで左折 | |
地形図によれば、この切通しの十字路は、直進が丹生山、左折が山田の里への下山路、右折が淡河へ下る山道のようだが、淡河へ下る山道は現状の感じから薮道と化しているようだった。当方は、ここで左折して、山田の里へ下山することとする。薄暗い杉林の中のガレた道を下ること約10分で丹生神社裏参道に合流した(12:21)。ここには、帝釈山方面を示す古い道標が残っている(写真左)。 | |
丹生神社裏参道に合流 | |
延命地蔵 | 丹生山の丁石 |
丹生神社裏参道は車も通れる林道で、舗装路となっている。この丹生神社裏参道でご夫婦のハイカーとすれ違った。その先、少し下ったところで「延命地蔵」の分岐点となった(写真左上 12:29)。ここは丹生神社表参道と裏参道の分岐点でもある。地蔵に手を合わせて、さらに下って行く。丹生神社参道では丁石が続く(写真上)。丁石は清盛が丹生神社に度々参詣した頃に、道標として建てられたと伝わる。 | |
三角点取付き | |
丁石は丹生神社を起点として約120m毎に建てられ、25番までの丁石が現存する。その丁石で、廾二丁の石丁の近くに三等三角点:北川原の設置があることを思い出した。久しぶりに北川原三角点を探索してみることにしたが、取付きがどこだったか記憶が定かでない。何度も丁石の付近をうろついて、竹藪の中に取付きを見つけた(写真上)。そこから踏み跡を1分進んだ所に「北川原三角点」が設置されていた。 | |
北川原三角点 | |
三角点から参道に戻って、再びそれを下り始めた(13:02)。三角点のあった廾二丁(22丁)の丁石から7分程下ってきて、参道は民家の脇に出てきた(13:09)。その先には丹生宝庫が見えているが、丹生宝庫の手前にはりっぱな丁石が残っている。廾五丁の丁石で、これが現存する丁石で一番数字の大きいものとなる(写真右 13:10) | |
従丹生山廾五丁 | |
廾五丁の丁石から丹生神社の鳥居の方に向かって進む。鳥居の脇が丹生神社前バス停で、今日はそのバス停をゴールとする予定だ。丹生神社の石の鳥居には13時15分の到着。鳥居から北の方を望むと、ちょうど丹生山が遠望できた。丹生山の丹生神社は三木合戦で秀吉軍に焼き討ちにされた。その時殺された童子が稚子ヶ墓山に葬られたので、丹生山と稚子ヶ墓山は密接に関連する。 | |
神社鳥居から丹生山 | |
また、バス停のベンチから南側に見える山域(写真右)は、義経の鵯越への進軍路であったと伝わるところ(藍那古道)だ。この辺りは、秀吉や義経が歴史の大舞台で暴れまくった場所で、史実にその名を残すところだった。バス停の横にある大きな地図「丹生山史跡道しるべ」を見て、歴史に思いを馳せながらバスの到着を待ったのだった。 | |
丹生神社前バス停 |
● (参考)岩谷川から帝釈山への道を従前歩いた時の記録(平成24年5月26日)はこちらを参照。 |
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