城山・二本松林道 (お勧め度★☆☆) 表六甲【1-24】 |
今年の夏は猛暑であった。気温35度を超える日が続いていたが、9月も終わりになって、やっと暑さも和らいできた。そこで、約2か月ぶりに六甲山を逍遥してみることにした。 体も鈍っているので、市街地から手近なところで、城山(滝山城跡)をスタート地点として、二本松林道を経て、七三峠、平野谷(皿器谷)を辿ってみることにした。 新神戸駅を北に出て、坂を少し登ったところが城山(滝山城跡)への登り口である。「城山を経て二本松林道」の表示と、「滝山城跡」の石柱が立っているのですぐわかる(写真右)。 |
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城山への登り口 | |
民家横の石の階段を8:50にスタートする。 階段を登り切ると道は右折し、民家の裏に回りこむ。 そこから、急勾配でつづらになった山道が始まる。いきなりの急坂は、久しぶりに山に入る当方の両脚には相当キツイ感じだ。 急勾配の山道の左手側では、木々の間から新神戸駅前の高層ビルが見え隠れしている(写真左)。神戸は、大都会のすぐ裏で森林浴が楽しめるという、ハイカーにはありがたい町なのだ。 |
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城山へ続く山道 | |
上り始めて15分くらいで、ロープウェーの架線の下にやって来た(写真右)。 このロープウェーは新神戸ロープウェー(神戸夢風船)といい、麓の新神戸駅と世継山頂上にある布引ハーブ園を結んでいる。 ロープウェーの始発は9:30であるから、まだゴンドラは動いていない。 ロープウェーの架線を過ぎて3分ほど進むと右側に道が分岐していた。布引貯水池の方に続く道だが、その分岐には「行き止まり」の表示があった。従前は貯水池の湖面の方に道が続いていたのかもしれない(写真下)。 |
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新神戸ロープウェー | |
行き止まり | ロープウェーのゴンドラが間近に |
行き止まりの分岐からも、まだまだ急勾配の登りが続く。 噴出す汗を拭っていると、目の前をロープウェーのゴンドラが通り過ぎていった(写真上)。 あれっっ???まだ9:12である。 ロープウェーの始発は9:30と思っていたが、記憶違いだったのか。 更に、山道を登り、9:18に平坦な道になった。そこから少し進んだ所で、道が左右に分岐していた。本線は左だが、右側にも薄い踏み跡がのびている。おまけに、そちらには四角柱の石柱と、小さな三角柱の石柱が設置してある(写真左)。 | |
水道用地境の石柱 | |
これは探索してみなければと思い、石柱の道に進んでみた。 すぐに踏み跡は薄くなり、急勾配の下りになったが、石柱は何個か続いている。その石柱を見てみると「水道用地境」の表示があった。この道は布引貯水池の境界を示し、湖面まで下っているのではと思い、さらに獣道のようになった踏み跡を辿って下ってみた。 しかし、その道は10分程下った所で、藪になり前進不可能となった。ほとんど湖面に近いところまでは下ってこれたのだが・・・、それ以上は無理である。 |
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城山(瀧山城址)下の東屋 | |
また登り返して、9:52に城山(瀧山城址)へ続く山道に合流した。 そこから3分程、緩やかに登る道を進んで、東屋のある広場に到着した(写真上)。 そこは明らかに、滝山城の郭(くるわ)跡と思われるところである。 滝山城は1579年に信長方の武将により攻略されその歴史を閉じたが、石垣などは兵庫城築城の用材として運び去られたとされ、郭跡と思われる一帯には、城跡を思わせるような構築物はなにもない。 |
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城山(瀧山城址)の分岐案内 | |
東屋のある広場には石に彫られた案内表示が設置してあった(写真上)。これには、二本松と布引の方向が示されると共に、かまぼこ板が張られて表示が消されている方向もあった。それは南の方向である。そちらに少し進んでみた。確かに薄い踏み跡が南東方向に下っているようにも思えたが、行く手は藪に覆われ判然としなかった。 その広場のすぐ西側が、城山(瀧山城址)本丸跡である(写真右 9:55)。 新神戸駅からここまでは約1.1Kmくらいであるが、1時間もかかってしまった。 |
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城山(瀧山城址) | |
城山頂上には「史蹟瀧山城址」と掘られた大きな石碑があるだけで、城跡を示すような構築物の跡は何も存在しない。ベンチが設置してあったので、そこで少々休憩した後、二本松に向けてスタートした。 瀧山城址から二本松への道は何度もアップダウンを繰り返しながら西にのびている。6分ほど進むとその道は北野町(異人館)方面から登ってきた道と合流した(10:06)。そこを過ぎると、左手側に「民論社」と表示された石碑の立つ広場が登場し、次に市章山、イカリ山方面から登ってきた道と合流した(写真左)。 |
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イカリ山方面分岐 | |
その合流地点を過ぎると、山道から再度ドライブウェーのアスファルト道に飛び出す(10:15)。 そこは二本松のバス停であり、バス停表示の横には湊川神社神苑と掘られた大きな石碑も設置してあった(写真右)。 その石碑の裏には一面に漢文が刻まれており、それによるとこの石碑は昭和13年7月に湊川神社の宮司により建立されたものと読めたが、その他の漢文は何が書かれているのか理解は不能であった。 この辺りの一帯は古い石碑が多々立てられ、なにやら歴史を感じるエリアであった。 |
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湊川神社神苑 | |
湊川神社神苑の石碑から少し北に進むと、「再度山歩道」と記載された大きな看板が登場する(写真左)。ここから西に伸びるのが二本松林道である。 「再度山歩道」の看板の前には附近の案内地図も設置されている。その地図を確認していると、近くの二本松バス停に神戸市バスが滑り込んできた。2人のハイカーが降りてきて、二本松林道に歩を進めて行かれた。 歩きやすい二本松林道はお手軽なハイキング道としてファンも多いようだ。 |
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再度山歩道表示 | |
2人のハイカーに続いて当方も二本松林道を歩き始めた(10:19)。この林道は道幅5m位の平坦路で、快適に歩ける。ただし、車も入ってくるので、要注意である。 また、二本松林道の道沿いには、神戸市によって附近の植生や、生息する小動物の説明板が設置してある。 その説明板の一つによると、この林道沿いにはメタセコイヤが植えられているという。日本では100万年前に消えた植物であったが、中国大陸の奥地で生き残っていたのが発見され、その苗木が1958年に植林されたと説明されていた。この林道では生きた化石も確認できるのだ。 |
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二本松林道 | |
二本松林道に入って15分ほどで猩々池に到着した。めずらしく、猩々池には水が溜まっていた(写真右 10:35)。池の周りでは数組のパーティーが休憩している。 二本松林道は更に西に続いているが、猩々池のところで車止めの鎖が張られており、車はここから西には進めない。 鎖を跨いで林道を西に進む。歩きやすい平坦路が続き(写真下)、快適に歩を進める。 猩々池から20分弱で右手側に再度公園方面に続く道が分岐していった(写真右下)。 |
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二本松林道沿いの猩々池 | |
更に続く二本松林道 | 再度山方面への道が分岐(22年2月撮影) |
再度山方面への道が分岐するところは、以前、神戸学園(ひふみ園)があった場所である。ひふみ園は数年前に移転して現在は空き地で、立入禁止となっている(写真右)。 この立入禁止の看板に向かってすぐ左側から、七三峠に登る道が分岐している。ここで、寄り道して七三峠に登ってみることにする。 二本松林道から山道に入り、少し登るとコンクリートの道になる。その道は急な登りで、登り切ったところはトンネルがあるが、閉鎖されている(写真下)。 |
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神戸学園跡地 | |
コンクリートの道は有馬街道からここまで続いている道で、ひふみ園がここにあった頃までは、頻繁に車の往来があったのであろうが、今はトンネルも閉鎖されて寂れた感じだ。 また、有馬街道まで続くこの道は、極楽谷林道と言い、ハイキングマップなどにも表記がある。 極楽と言う名称に惹かれて、以前(平成22年2月7日)歩いたことがあったが、薄暗くて味気ないコンクリート道が続くのみで(写真下)、何が極楽なのか理解できなかった記憶がある。 |
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閉鎖されたトンネル | |
さて、七三峠へは写真上の閉鎖されたトンネルのやや手前を南に登る道があるので、そこを入る。トンネルのちょうど上辺りが七三峠と思われる。 その七三峠へと続く道を登っていくと、峠の手前に、なにやら門のような遺構が残されている(写真下)。 藪の中に飲み込まれそうな感じで立っている古い門は、何だったのであろう。何十年か前には、この一帯に大きな施設でもあったのだろうか。なぞだ。 |
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極楽谷林道(平成22年2月7日撮影) | |
古い門を過ぎるとすぐ七三峠に到着である。 しかし、今日の七三峠はいつもと雰囲気が違う・・・! 一面が笹で覆い尽くされていて、足元さえも確認できない状態なのだ(写真左下)。 七三峠はいつも綺麗に笹が刈り取られ、さっぱりとしたイメージしか持っていなかったので、今日は違和感を感じたのだ。 そのとき、笹がガサガサと音をたててゆれたかと思うと、その中から一人のおじさんハイカーが現れた(写真下 11:05)。その方も、こんな笹に覆われた七三峠は初めてだと、感想を述べられていた。 |
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古い門の残骸が存置する | |
七三峠 | 笹が伸びた七三峠 |
おじさんは、七三峠から二本松林道の方に下っていくのだと言う。当方も、おじさんに続いて下っていく事にする。 二本松林道への道は大きなアップダウンを繰り返しながら、高度を下げていく。その途中のちょっとしたピークから、晴れた青空を見上げると、一筋のヒコーキ雲が残されていた。浮かぶ雲も秋空の感じだ。 笹の繁った道を、足元を確認しながら二本松林道を目指して下っていく。 |
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ヒコーキ雲 | |
笹を掻き分け、七三峠から15分ほどで二本松林道まで下ってきた。 そこから防火道でもある平野谷東尾根が南に伸びているが、その入口には「通行禁止」」の表示があった(写真右 11:20)。一部土砂が崩れているところがあるらしい。 七三峠から一緒に下ってきたおじさんは、ここで少し休憩して、平野谷東尾根を下って様子を確認してみるということだった。 当方は、平野谷を下る予定なので、ここから更に二本松林道を西に進むことにする。 |
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平野谷東尾根通行止め | |
二本松林道は徐々に高度を下げ始めた。 歩き始めた二本松林道の始点は標高320m位だが、その林道が有馬街道に合流する地点は標高200m程度ではないだろうか。林道は100mほど下っていくのである。 ヘアピンカーブを繰り返して、林道は高度を下げていく。左手側は浅い谷底であるが、日の光が差し込み、明るい雰囲気だ。二本松林道は快適に歩ける林道なのだ(写真左)。 |
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二本松林道が続く | |
やがて、平野谷道を示す標識が登場した(写真右 11:46)。南に進むと「平野谷・祥福寺」と表示してある。この辺りも笹が伸びている。 また、ここからは「天王谷東尾根」道も下っている。その尾根道も防火道の表示がされていた。 当方は、平野谷(皿器谷)道を下ることにする。最初はコンクリートで固められた道を下る。やがて左手側に爽やかな水音が聞こえてきて、沢の流れが見えてきた。そこで、またまた「通行禁止」の表示が現れた。沢を渡って、沢沿いに下っていく道があるようだが、それも土砂崩れで通行止めとされているのであろう。 |
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平野谷への分岐 | |
更に進むと、道沿いの左側の斜面の土砂が崩れているところがあった。このあたりの斜面は脆い砂の層で、崩れやすいのかもしれない。 さらに、平野谷道を下っていく。この道は歩く人が多いのか、道端の下草もよく手入れされ、快適に歩ける(写真左)。 小さな堰堤を何個か越える。堰堤内に小さな畑が整備され、野菜が作られているところもあった。平野谷道は生活の匂いのする道でもある。 |
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平野谷 | |
谷道をどんどん下っていくと、周辺にトタンと青いビニールシートで作られた古い小屋が点在してきた。今は住人はいないようだが、古い洗濯機とか自転車がそのまま残されており、昔はここに暮らしがあったことが窺われる。 やがて、左手側に大きな堰堤が現れた(写真右)。楠谷砂防ダム(昭和26年2月完成)だ。このダムを過ぎると、谷道も終わり、街中に出てくる。そこからは、ちょうど神戸の元町、中突堤あたりが綺麗に見えていた(写真下)。道端に椅子が2個置いてあり、地元の方が夕涼みがてら、景色を楽しまれるのであろう。 |
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楠谷砂防ダム | |
なお、この辺りは、急傾斜地崩壊危険区域で、宅地造成等には知事の許可がいるようだ。景色はいいが、崩壊危険はよろしくない。 ところで、急傾斜地崩壊危険区域を示す掲示に表記されたこの辺りの地図を見ると、この道から北に伸びる階段を登って、尾根筋に山道が続いていることが示されている。数年前に、平野谷を歩いたときに、このエリアに迷い込んで、難儀をしたことを思い出した。そのとき古い踏み跡を見つけたが、やはり、古くはこの尾根にも道が通じていたようだ。 |
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五宮町からの景色 | |
街の中を、どんどん下っていく。五宮神社を過ぎ、祥福寺を確認して、大倉山公園まで下ってきた。 大倉山公園は神戸市が大倉家から寄付を受け、昭和44年に開園した公園である。園内には35県のお国自慢の木々が県毎に植えられた「ふるさとの森」があり、全国の森がここに結集している。写真は岡山県の森である(写真右 12:40)。 大倉公園前には市営地下鉄が走っている。当方は大倉公園駅から車中の人となって、久しぶりの山歩きを終えたのであった。 |
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大倉山公園 |
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