た | この page TOP へ |
| 太子の森 | ・ 市章山及び錨山の南側、ビーナスブリッジの北側辺りの森。 ・ この森は、昭和34年、皇太子御成婚を記念して整備された。 ■ 関連ページ |
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| 大師道 (再度谷道) | ・ 諏訪山児童公園の西から再度谷を遡る大龍寺への参詣道。 ・ 参詣道としてのみ利用されたのではなく、小部、箕谷、谷上方面から修法ケ原を経て、山田方面からの物資を搬出した路でもあった。 ■ 関連ページ 大師道 |
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| 太閤の知るべ岩 | ・ 「知るべ岩」の項目を参照。 ■ 関連ページ 知るべ岩 |
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| ダイヤモンドポイント
| ・ 石楠花谷と地獄谷西尾根南の出会いから約200m、ノースロードとの交差点。六甲山から北方の展望地として有名。 ・ 左に石楠花谷から石楠花山、右に大きく切れ込んだ地獄谷、六甲アルプスといわれる地獄谷東尾根の稜線が望める。正面には丹生山系の山脈が広がる。 ■ 関連ページ ダイヤモンドポイント |
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| 大龍寺 |
・ 和気清麻呂の開山。当初は摩尼山と号したが、804年弘法大師が入唐の安全祈願と807年の帰国後のお礼参りで再び入山されたので山号を再度山としたといわれる。 ・ 本尊の菩薩立像は国指定重要文化財。 ■ 関連ページ 大龍寺 |
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| 高塚の清水 |
・ 有馬三名水の一つ。江戸初期の古書に「いさぎよく、いと冷ややかにて味わい又すぐれたり。」と記されている。 ・ 有馬に湯治にきた豊臣秀吉がこの水でたてたお茶に感動し、大阪に帰城後も再三水汲みを命じたともいう。 ・ 明治大正時代の治水工事で道が絶え、いつしか忘れ去られていたが、2002年春、有馬保勝会のメンバーが再発見した。 ■ 関連ページ 白石谷・十八丁尾根 |
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| 鷹尾城跡 |
・ 1511年、細川高国と澄元の両軍勢による鷹尾城と芦屋川原の合戦は阪神地方の有名な古戦場として知られている。 ・ 残念ながら、鷹尾山(城山)の山頂には、城跡としての遺構は何も残っていない。 ・ Shiroyama battlefield ■ 関連ページ 鷹尾城跡 |
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| 高取山 |
・ 長田区にある独立峰。山頂に高取神社があり信仰と毎日登山の山。 ・ ずっと昔大洪水があり、この山も水没した。水が引いて村人が山に登ってみると、大きな松の木にたくさんの蛸が足を絡ませていた。村人は大喜びで蛸を取って帰った。この時から「タコ取り山」と呼ばれるようになったのだとさ。 ■ 関連ページ 高取山 |
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| 高取神社 大灯籠 |
・ 明治43年建立より灯明絶えざりし大灯籠は大東亜戦争にて消灯した。平成元年に「平和の灯」として再点灯したが、平成7年兵庫県南部地震により、点灯部分が倒壊し以後仮点灯を続けた。 ・ 平成13年高取神社鎮座1800年記念事業の一環として再建復興した。 ■ 関連ページ 高取山 |
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| 滝山城址 |
・ 新神戸駅のすぐ裏の城山にある城跡。 ・ 瀧山城は、標高約300mの尾根を使った典型的な山城で、東西約600m南北約400mという広い城域を持ち、ほぼ完全な形で城跡が残っている。ハイキングコース沿いに何箇所もある小さな平地は、郭(くるわ)跡であり、木の柵や塀、矢倉などを設けて城を守っていた。 ・ 滝山城は、室町時代に赤松円心が篭城し、戦国末期に松永久秀の居城となった。永禄9年(1566)に久秀の留守を攻められ、三好方の手で落城した。その後、信長の手に落ちて以降廃城となった。 ■ 関連ページ 城山・滝山城址 |
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| 袂石(礫石) | ・ 袂石(たもといし)は、有馬太閤橋のそばにある大きな岩。 ・ 昔、袂石の北二里ほどのところにあった道場城の殿様が葦毛の馬に乗り、重藤の弓と白羽の矢を持ち、有馬の山で鷹狩りをしたことがあった。山中で出会った美しい乙女を怪しく思った殿様は乙女に向かって矢を放った。そのとたんに殿様は目がくらみ落馬してしまったという。実は、乙女は、湯泉神社に祭られる熊野久須美の女神であった。矢を放たれて、逃げながら乙女は袂に小石を入れて身構えたが、殿様が落馬して追ってこられないことを知って、ここに袂の石を捨てたとも、逃げながら乙女が殿様に小石を礫のように投げたともいう。その小石が時と共に大きくなってこの巨石になった。袂石とも礫石とも呼ばれるこの石には、女神の力が宿っているという。 ■ 関連ページ 袂石 |
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| 丹生山 |
・ 丹生山の頂上に丹生神社がある。平清盛が福原遷都したとき比叡山に見立てて日吉山王権現をまつって月参りしたと伝えられる。 ・ もとは南北朝時代に多くの僧兵を擁して栄えた明要寺の鎮守社であった。この寺も三木合戦で、別所方に味方したため秀吉軍に攻められ、焼き討ちにあい、後に復興された。明治初期の廃仏毀釈より廃寺となり、丹生神社と改称した。 ■ 関連ページ 丹生山 |
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| 稚児墓山 |
・ 丹生山系のこの山の頂上近くに、稚児の墓がある。それは羽柴秀吉が三木城攻めのさい、丹生の僧兵が別所方に味方したため、秀吉は怒り、丹生山明要寺を一山ほとんど焼き払った。僧侶も、童子も皆殺しとした。そのとき殺された稚児たちの命運を里人が哀れみ、この山に石を積んで墓をつくったのだとか・・・。 ・ 丹生山系の最高峰。 ■ 関連ページ 稚児墓山 |
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| 通報プレート 119番通報プレート |
・ 神戸市消防局により2004年2月から六甲山系に設置された番号の書かれた黄色いプレート。 ・ ハイキング中に怪我や病気となった際、場所を特定して救助に役立たせるもの。救助を要する時には、その番号を救助隊に伝えればよい。 ■ 関連ページ 119番通報プレート |
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| 衝原(つくはら)湖 呑吐(どんと)ダム |
・ 美嚢川の支流山田川のちょうどシビレ山とシブレ山に挟まれた位置にあるダム。平成元年に竣工。 ・ 主に農業用水と水道用水の供給を目的に建設された。堰堤からの眺めはよく、北側は志染三津田の水田地帯、南側はつくはら湖が広がっている。堰堤周辺の桜も見事。 ・ 呑吐(どんと)という名は、かつてこの地にあった大小の滝が川の流れを呑み込んで吐くように見え、「呑吐の滝」と呼ばれていたことに由来する。 ■ 関連ページ 衝原(つくはら)湖 |
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| 鼓ケ滝 |
・ 落ちる滝の音が山々にこだまして、鼓を打つ音に似ていたのでこの名がついた。 ・ 現在は、洪水等により岩が崩れ、形が変ったので残念ながらその音を聞くことはできない。 ■ 関連ページ 白石谷・十八丁尾根 |
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| 鼓ケ滝公園
Tsuzumigataki Park |
・ 鼓ケ滝を擁する公園。園内には川魚やサワガニがおり、森林浴が楽しめる。また、夏の夕暮れ時にはホタルがあたり一面に飛び交い、涼やかなカジカの鳴き声が聞こえる。 ・ 園内には有明桜の碑があり、秋の紅葉など四季折々の魅力にあふれ、有馬六景のひとつに数えられる有馬の名勝である。 ・ The name of the park is derived from the sound the waterfall makes when it echoes around the rocks and resembles the beating sound of a tuzumi hand drum. River fishes and carbs live in the park. Enjoy breathing the fresh forest air and strolling around the park. In the early summer dusk, fireflies glow and kajika leaf frogs croak like cool bells ringing. Also, with Ariake-zakura (cherry blossoms) in spring, and colored leaves in autumn, etc. the park offers attractive seasonal views throughout the year and is one of the Best Six Views of ARIMA. ■ 関連ページ 白石谷・十八丁尾根 |
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| 鉄拐山 (てっかいさん) | ・ 縦走路で旗振山の東に位置する山。山頂には、復興基準点・点名 FK322と鉄拐山三等多角点がある。 ・ 鵯越の逆落としの場所については諸説があるが、一説では、寿永3年2月、義経の軍勢はここ鉄拐山からその急峻な山肌を一気に一の谷目指して駆け下りて平家の陣を大混乱に陥れたとされる。 ■ 関連ページ 鉄拐山 |
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| 天上寺 | ・ 摩耶別山にある寺。大化2年(646年)に、孝徳天皇の勅願によってインドの法道仙人により開かれた古刹。ご本尊はお釈迦様が自ら感成させたという十一面観音。弘法大師が唐より帰朝の折に釈迦の生母摩耶夫人像をこの寺に奉安したことから、山の名を摩耶山という。沙羅・百日紅が美しい寺。 ・ 俳句の寺としても名高い。蕪村が摩耶詣での折に想いを得て詠んだという「菜の花や月は東に日は西に」の句碑が建っている。 ■ 関連ページ 天上寺 |
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| 天狗岩 (摩耶山) | ・ 奥之院の北の山頂にあるこの天狗岩という巨石は広さ8畳ともいわれ、伝説によると摩耶山の僧が山中に出没する天狗を封じ込めたところだという。行者岩とも称され、今日でも修験道者が信仰の対象としているが、古い山岳信仰岩坐(神が降臨するといわれる巨石)だったのであろう。 ・ この岩の名も、その北方から布引市ケ原に至る山道、天狗道の名もともにそこで修行する山伏の姿を見た山麓の農民が山伏たちを天狗と思って名づけた呼び名であろう。 ■ 関連ページ 摩耶山 |
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| 天狗塚 (長峰山) | ・ 長峰山の頂上には天狗塚と呼ばれる巨石がある。ここからの大パノラマは六甲山地屈指の眺望を誇る。 ・ ここに座っていると心が落ち着くのは、ここが天狗と呼ばれた行者達が山の自然と体を一体化させたパワースポットであったことによるのかもしれない。 ■ 関連ページ 天狗塚 |
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| 天皇池 | ・ 須磨、天井川左俣にある池。須磨離宮に水を引くために作られた。 ・ 須磨離宮(武庫離宮)の造営は、良質の水が供給できることが選定の大きな要因であった。(その当時はコレラなどの疫病が流行していた。)天井川を堰きとめて水を貯め、水源地とした。通称「天皇の池」と呼ばれていた。当時は周囲に鉄条網が張り巡らされていた。 ・ 鋳鉄管で送水し、浄水場で浄化したあと御殿などへ送られた。池の横にあるトンネル(隧道)は、大雨のときに土砂水の迂回路として掘られたらしい。同デザインの隧道が離宮公園内にもある。 ■ 関連ページ 天皇池 |
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| 天王谷 | ・ 神戸駅から有馬街道を北に進み山間に入ると天王谷となる。天王谷の入口には祇園神社があり、ここには牛頭天王(ごずてんのう)が祀られている。天王谷の名はこの神社に由来するものという。 ■ 関連ページ 天王谷東尾根 天王谷西尾根 |
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| 天覧台 | ・ 六甲ケーブル山上駅にある展望台。阪神間や大阪平野部、和歌山方面までワイドに広がる景色が一望できる。大阪・神戸の夜景を一望出来るビューポイントとしても知られている。 ・ 昭和56年5月25日に昭和天皇がお立ち寄りになられ、神戸1000万ドルの夜景をご覧になられたことを記念して「天覧台」と名づけられた。 ・ The Tenrandai observatory located on Mt. Rokko was so because it had been a place where the Tenno emperor came to visit.The name itself means “the view where the Emperor stood” Located east of Mt.Maya and west of Rokko Garden Terrace, it provides a well balanced view of the night scenery spreading from Kobe to Osaka Bay. In july of 2004, the observatory was recognized as a “Japanese night View Heritage Site.” ■ 関連ページ 天覧台 |
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| 徳川道 |
・ 徳川道は、日本が開国を迎えた江戸時代の末期(1868年)に、外国人とのトラブルをさけるため、海沿いの主要幹線である「西国街道」を大きく迂回する石屋川から杣谷・小部・藍那・白川・高塚山を経て大蔵谷に至るバイパスとして、幕府の命により完工しました。しかし、実際には利用されないまま開国を迎え、この道は廃止されましたが、大正時代より六甲を歩くハイカーたちに利用され、いつしか「徳川道」と呼ばれるようになりました。(出典:穂高湖付近の大きな看板「平成26年6月神戸市森林整備事業」) ・ 幕府の命により兵庫開港の年慶応4年(1868年)に完工した。当時の名称を西国往還付替道(さいごくおうかんつけかえどう)といい、海沿いの主要幹線である西国街道を大きく迂回する道筋であった。居住地での外国人との衝突をさけるために設置されたにもかかわらず、同年、備前藩が外国人と衝突、市街地が外国兵により占拠された。 世に言う”神戸事件”である。その後この道は廃止されたが、大正年代よりハイキングコースとして利用され「徳川道」と呼称されるようになった。 ・ 六甲山中では、杣谷道と摩耶山裏の谷筋が徳川道の一部として残されている。 ■ 関連ページ 徳川道 |
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| 徳川道石積み |
・ 対岸の雑木の間に見える石積みは、徳川道名残の石垣であり石垣の上を徳川道が通っていた。この石垣は25間(45m)にわたってつくられ高さは平均4尺(1.2m)であった。いま残っているのはその一部である。積み方は「ごぼう積」といって加工しない自然石で奥行きを深く積み上げ、内側でしっかり組み合わせる積み方である。(出典:摩耶山裏の徳川道脇の看板「環境庁・兵庫県」) ■ 関連ページ 徳川道 |
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| 魚屋道 |
・ 深江から六甲最高峰下の一軒茶屋を経て有馬に至る道。 ・ 深江の浜で採れた魚を背に行商人が六甲山を越え有馬温泉に運んだことからこの名が付いた。 ・ 昔、この道を越えていた魚屋が余った魚を飢えた山犬に与えたところ、そのお礼に山犬が魚屋を狼の群から守ってくれたという昔話も伝えられている。 ■ 関連ページ 魚屋道 |
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| 飛石渡し |
・ 川の中に大きな石を平らな面を上にして数個、置き並べ、その上を渡るようにしたもの。 ・ 徳川道の、川を渡る場所に造られた。 ・ 置かれた石の大きさは長さ2尺から3尺(60〜90cm)、幅1尺5寸から2尺(45〜60cm)であった。杣谷の登り口から植物園の東口までの間に19箇所の飛石渡しがあり、一箇所には平均4個の大石が置かれていた。 ■ 関連ページ 飛石渡し |
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| 鳥地獄 |
・ 魚屋道を有馬温泉に下りついたところにある。射場山と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼ぶが、この谷は数十万年前の地殻変動のときにできた射場山断層である。射場山断層の割れ目からたくさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥などが死んだのでこの名の由来がある。この付近に湧き出ている炭酸水は、かつてはその成分がわからず、町民から毒水として恐れられていた。明治以降に虫や鳥が死んだのが炭酸ガスのせいだとわかった。 ■ 関連ページ 鳥地獄 |
な | この page TOP へ |
| 那須与市の墓 | ・ 那須与市宗隆は屋島で扇の的を射た若武者。与市は下野国(栃木県)那須の庄の住人で、郷里にも墓所があるが、須磨では晩年に与市が北向厄除八幡神社へお礼のために参詣し、病のためにこの地で没したと伝えられている。この墓所に参詣すると、年老いても「しもの世話にならない」との信仰があり、毎月7日のご命日には多くの参詣者が訪れる。 ・ Nasuno yoichi was a young soldier who fought many battles under the command of Yoshitune during the Genpei war and earned praise during the battle of Yashima for shooting down a target on a Heike ship with a single arrow. It is said that in his later years Nasuno Yoichi visited this area to pay tribute but fell ill and died here. There is a legend that if you worship here you will not become decrepit and a burden to your family in your old age. ■ 関連ページ 那須与一の墓 |
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| 那須神社 | ・ 源平合戦のとき、那須与市宗隆がこの神社を守護神として戦場に臨み、武運をまっとうした。その後、与市はお礼のため再びこの地を訪れ参詣したが、たまたま病にかかり、この地で死去したという伝説がある。大正10年頃、境内に与市を祀る那須神社を勧請している。 ■ 関連ページ 那須神社 |
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| ナマズ石 | ・ 阪神大震災で荒地山上部(通称ナマズすべり)から落ちてきた大岩。地震で移動した石では最大のもので約500トンある。 ・ ナマズ石の名前の由来は・・地震を引き起こしたナマズが動かした石・・・からきているとも・・? ・ 石の表面の文字のようなものは弥生時代に書かれた中国古代文字(ロンサン文字)とされる。稲作の文化を大陸より伝えた古代人により書かれたものといわれる。 ■ 関連ページ ナマズ石 |
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| 灘の一ツ火 | ・ 保久良神社境内にある石灯篭。 ・ この石灯籠は文政八年(1825年)のものですが、住吉は“かがり火”を燃やし、中世の昔より“油”で千古不滅の御神火を点しつづけ、最初の灯台として「灘の一ツ火」と海上の船人の目印にされました。古くからふもとの北畑村の天王講の人々が海上平安を願う「祖神」の遺志を継承し、交代で点灯を守り続けてきたものです。 ■ 関連ページ 灘の一ツ火 |
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| 二本松林道 | ・ 再度ドライブウェーの二本松バス停から猩々池を経て有馬街道(国道428)に通じる林道。 ・ 二本松バス停から猩々池までは車の通行が可能。 ■ 関連ページ 二本松林道 |
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| 二本松道 | ・ 北野町からハンター坂、二本松茶屋、二本松を通り善助茶屋まで通じていた道。 ・ 明治の末から、大正・昭和の始めにかけて、毎日登山のルートの一つとして賑わっていた。 ■ 関連ページ 二本松道 |
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| 布土の森 ヌノドの森 | ・ 唐櫃小学校の横にある小さな森 ・ この森の中に神功皇后を祀るという石造りの祠がある。大和時代、神功皇后が三韓から持ち帰った武器甲冑と雌雄一対の黄金造りの鶏を唐櫃に入れて埋められたと伝えられ、それが、唐櫃の地名の起こりであるといわれている。昭和42年3月 神戸市(出典:布土の森の石碑・唐櫃石神社) ■ 関連ページ 布土(ヌノド)の森 |
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| 布引の滝 | ・ 布引貯水池下流の滝。那智の滝、華厳の滝と並んで、日本三大神滝といわれる。 ・ 布引の滝は、雄滝(43m)、夫婦滝、鼓滝、雌滝(19m)の4つの滝からなる。 ・ 布引の滝の水が少ないときは、奥平野浄水場からの遠隔操作で布引ダム(布引五本松堰堤)のバルブを開き水を放流し、ダムの景観を保っている。放流時間はam6からpm9まで。 ■ 関連ページ 布引の滝 |
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| 布引貯水池 | ・ 日本最古の重力式コンクリートダム。平成10年、文化財の指定を、平成18年に国重要文化財の指定を受けた。 ・ 神戸市の水道は、明治33年に給水を始めたが、このとき使われたのが布引貯水池の水。 ・ Kobe's water supply system began Meiji 33(1900). The water which supplied the inner Kobe city area at that time came from Nunobiki Reservoir. Nunobiki Dam is Japan's oldest gravitational concrete dam. In Heisei 18(2006), it was designated as an important cultural property. In order to ensure a steady supply of water in the future, after the Hanshin-Awaji Earthquake, construction was carried out to make the dam earthquake resistant. The water in this reservoir becomes the water we drink. Please do not dirty this precious water source. ■ 関連ページ 布引貯水池 布引ダム堰堤 |
は | この page TOP へ |
| 旗振山 |
・ 須磨浦公園駅裏の山で、昔、旗振り通信をしていた場所。兵庫の米相場を岡山へと伝達するための旗振場で、畳半畳ぐらいの旗の振り具合で相場がわかるようにしていた。 ・ 旗振場は15kmの間隔で設けられていたという。 ■ 関連ページ 旗振山 |
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| 八州嶺 |
・ 標高698.6m 摩耶山頂の三等三角点がある丘は、八つの国が見渡せたことから八州嶺と名付けられた。 ・ 現在は木が繁って、見通しは利かない。 ■ 関連ページ |
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| ハンター坂 |
・ この坂の近くに、1867年に神戸に来たイギリス人貿易業者E.H.ハンターの邸宅があった。 ・ E.H.ハンターはこの邸宅の横から再度山への登山道を開いたといわれ、これが毎日登山発祥のルートであると言われている。ハンター坂と呼ばれたこの登山道は昭和20年代の砂防工事で通れなくなったという。 ・ 現在ハンター邸は王子公園に移築されている。 ■ 関連ページ ハンター坂 |
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| ビーナスブリッジ |
・ 再度DWをまたいで金星台(諏訪山公園)と山頂の展望広場を結ぶ美しい8の字形のループ橋で、昭和46年に建てられた。平成16年には、恋人たちが自由に愛の鍵を取り付け、願いが叶えられる「愛の鍵モニュメント」が完成した。 ・ 明治7年にフランス人天文学者ジャンセン氏らが、諏訪山公園で太陽と金星、地球が一直線に並ぶ「金星の太陽面通過」という現象を観測したことにちなんで名付けられた。 ■ 関連ページ ビーナスブリッジ |
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| 百丈岩 | ・ 江戸時代の摂津名所図会には、鎌倉峡を「かもしか谷」のなまったものだと記するとともに、百丈岩については「高さ数十丈尺、岩上には百畳を敷けるより名とす」と述べている。室町時代より、有馬温泉を訪れた文人や高僧たちは、競ってこの地を訪れて、奇勝景観の美を絶賛した詩歌や紀行文をものすることを風流とした。(出典:百丈岩やまびこ茶屋脇の看板「神戸市北区役所・道場町連合自治会」) ・ 緑の山並みの中、暗灰色に浮かび上がる巨岩は、基部からの高さは約60m、3面が絶壁の垂直となっており、千苅貯水池岩近くの不動岩とともに、岩登りのゲレンデとして知られています。(出典:神鉄二郎駅の近畿自然歩道の看板「環境庁・兵庫県」) ■ 関連ページ 百丈岩 |
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| 百万弗テラス | ・ 摩耶ケーブル虹の駅は、かつては摩耶駅と呼ばれ、昭和30年に摩耶ロープウェーが開業するまでは摩耶山の山上駅として賑わった。その駅前にあった百万弗テラスは絶景スポットとして人気があった。 ■ 関連ページ |
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| 深江山之神社跡 | ・ 神社跡に次のとおり表記された看板がある。 深江の人々が農業の守り神として安政五年(1858年)よりお祭りしてきましたが、社会環境の変化もあり、深江大日霊女神社(大日神社)境内に移すことになりました。
今日まで長い間ご参拝・ご支援いただき有り難うございました。平成十六年 三月吉日 大日霊女神社 奉賛会 ■ 関連ページ 深江山之神社跡 |
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| 再度公園 | ・ 再度山(ふたたびさん)の北に位置する。公園内の池周辺の松は日本の名松百選のひとつ。秋の紅葉の名所でもある。 ■ 関連ページ 再度公園 |
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| 再度山 | ・ 弘法大師が入唐のときこの山に登山して求法を祈り、帰朝ののち再びお礼のため登山したので「再度山(ふたたびさん)」の名がおこったという。 ■ 関連ページ 再度山 |
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| 仏座巌 | ・ 仏座巌は、その形が仏座に似た巨岩であり、寛文の頃(1660年代)、日蓮宗の高僧・元政上人によって命名されたとされる。元政上人の有馬滞在記「温泉遊草」、「仏座巌記」では、「その上に菜畠を作り、なお、数十人を容れる余地がある」と巨岩の様を表現している。しかし、その後の文化9年の大洪水で埋没し、現在はその一部のみが姿を見せていると言われる。 ■ 関連ページ 仏座巌 |
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| 弁天岩 |
・ 芦屋川右岸、ナマズ岩近くの車道沿いにある。 ・ 「その昔、長く干ばつが続いたとき、雨乞い行った山伏が、芦屋沖でつかまえたフカを滝の近くの平らな石に据え、三日三晩祈り続け、三日目の夜に大きな包丁でフカを突き刺し、その血を水神さまの祀ってある弁天岩に振りかけた。すると、水神さまは弁天岩の汚れた血を洗い流すため、即座に大雨を降らせた!」との言い伝えがある。 ■ 関連ページ 弁天岩 |
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| 防火線 |
・ 平野谷東尾根(再度谷西尾根)は、山火事の広がりを防ぐため、尾根の草木が幅広く刈り払われている。その両側には燃え難い樹木が植えられ山火事に備えている。 ・ 防火線となっている尾根道は展望のハイキングが楽しめる。 ■ 関連ページ 防火線 |
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法道仙人 息継ぎの井 |
・ 摩耶史跡公園から掬星台へと続く摩耶古道の途中、鬱蒼とした森の中にちょろちょろと水が湧き出ているところ。 ・ 天上寺を開山した法道仙人が一休みしたかもしれないということで名付けられたという湧き水のスポット。 ■ 関連ページ |
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蓬莱峡 |
・ 有馬街道(大阪−有馬)の途中にある峡谷。太多田川の谷間にある崩壊壁の起伏の激しさは、恐ろしい怪獣の牙を思わせる。薄い鋭い岩肌、白いぼろぼろの壁、屏風を引き廻したような連続する谷の景勝地である。 ■ 関連ページ |
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保久良梅林 |
・ 「梅は岡本、桜は吉野」といわれ、岡本は梅の名所でしたが、宅地化等により其の面影は失われました。そこで、かつての梅の名所を今に伝えようと地元の協力を得て、神戸市が保久良神社境内に梅を植え、剪定や施肥などの管理をしています。 ■ 関連ページ 保久良梅林 |
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穂高湖 |
・ 上高地から仰ぐ穂高連峰をイメージさせるということから名付けられた。杣谷峠の北側にある。 ・ 湖畔にシェール槍や新穂高の小峰があり、湖面にこれらが映りこむ瞬間が、至高の瞬間らしい。 ■ 関連ページ 穂高湖 |
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梵字石 |
・ 摩耶山にある「産湯の井」の中から出てきた石。 ・ 石に彫られている字は「大日如来」を表す梵字である。特徴のある彫り方や形から鎌倉時代のものとされています。井戸を聖なる所とし、魂として字を書いた土器や銅鏡を入れた古い例があることから、この石も同じような習俗により祀られていたものと思われる。 ■ 関連ページ 梵字石・産湯の井 |
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本庄橋跡 |
・ 本庄橋は魚屋道が住吉川の上流を渡るところにかけられた石橋で、このあたりが本庄九ケ村の入会地であったことにちなんで名づけられたのであろう。灘地方と有馬を結ぶ東六甲最古の山越え交通路で、当時の絵地図によると今の登山コースとほぼ一致して東灘区森で西国街道から分かれて山に登り、風吹岩、東お多福山、本庄橋、一軒茶屋、射場山々腹、有馬のルートを通っていた。幕府が灘から有馬への正規の街道を、西宮、宝塚、蓬来峡、船坂、有馬と定めた後も、遠まわりを嫌って人々はこの道を利用しつづけた。そこで街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は、これを「抜け荷の道」と称して大阪奉行所へその通行止を訴え、しばしば紛争がおこった。この本庄橋自体の建設年代は不明だが、文化3年(1806年)に灘と有馬の人々が道筋を大改修した記録がある。」(田辺真人記) ■ 関連ページ 黒岩谷西尾根・黒岩谷 |
ま | この page TOP へ |
| 摩耶花壇 | ・ まやビューライン虹の駅から旧天上寺があった摩耶史跡公園へ向かう参詣道を行くと「摩耶花壇」という看板がかかった廃屋がある。当時はここが摩耶山の終点であり、旧天上寺への参詣口であった。 ・ 摩耶花壇は摩耶ケーブルが運転を始めた大正15年に山上の宿泊施設として開業した。ロープウェーが開業する前はこの周辺が摩耶山上としてレジャー施設が整備されていった。当時の新聞記事を見ると、地下室を合わせて3階建てのお洒落な洋館だったが、今では草に覆われた基礎だけが残っている。 ・ 摩耶花壇からケーブル駅への道沿いは、桜の名所でもあった。 ■ 関連ページ 摩耶花壇 |
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| 摩耶観光ホテル (摩耶観) | ・ 昭和5年い開業したホテル(当初は摩耶山温泉)。 ・ 窓上の庇が水平線を強調したデザインである。L字型プランで南側に飛び出した部分や屋上の煙突など、船の艦橋を彷彿とさせる威容から、かつては「軍艦ホテル」と呼ばれていた。今はその使命を終え、摩耶山山腹にひっそりと眠る。 ・ 現在は立入禁止 ■ 関連ページ 摩耶観光ホテル |
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| 摩耶ケーブル 摩耶駅展望台 | ・ 昭和初期、摩耶ケーブル駅を下りてすぐの左手あたりにあった展望台。当時はここが摩耶山の終点。旧天上寺への参詣口であった。 ・ 昭和30年奥摩耶へのロープウェー開通後に、二階建ての「一千万弗展望台」に建替えられたが、現在はそれも取り壊されて、小さな広場になっている。 ■ 関連ページ |
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| 摩耶自然観察園 | ・ 摩耶山上の施設。 ・ 摩耶山は、昆虫や植物など自然の宝庫として知られており、ミズバショウやザゼンソウなどの珍しい植物が見られる。また、多くの野鳥が確認されており、バードウォッチングにも最適である。園内の「あじさい池」では6月になると満開のあじさいが咲き誇る。 ■ 関連ページ 摩耶自然観察園 |
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| 摩耶山 | ・ 646年インドの法道仙人が、この山にお釈迦様作の十一面観音像を祀り霊場を開き、その後、弘法大師が釈迦の生母摩耶夫人の像を祀って天上寺を創建したことから摩耶山の名が付いた。 ■ 関連ページ 摩耶山 |
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| 摩耶山史跡公園 | ・ 摩耶山(702m)は、古来山岳信仰の場であり、大化2年(西暦646年)、孝徳天皇の勅願を受け、法道仙人により仏教寺院が開創されました。その後大同年間、弘法大師空海によって、摩耶夫人像が奉安され、伽藍が造営されました。これが、摩耶山とう利天上寺です。 長い歴史の中で、観音霊場や安産祈願の寺として信仰され、最盛期には多くの塔頭、僧侶を抱えた摂津地方第一の大寺だったと伝えられています。表参道である上野道や、青谷道、また、兵庫方面の人々は、布引の東から山に入り天上寺に参りました。 昭和51年1月30日、天上寺は炎上、主要構造物のほとんどを焼失しました。その後、寺は、開創の地と伝えられる元摩耶へ移転し再建されました。神戸市では、旧境内地を歴史・伝説を有する史跡公園として整備を行っています。(神戸市森林整備事務所 山門近くの看板より) ・ 摩耶山は 古来山岳信仰の場であり、真言密教の伝来後は、そこに仏教寺院が建てられた。これが”とう利天上寺”である。この寺は、昭和51年1月30日炎上し、主要建造物は焼失した。神戸市は、旧境内を自然溢れる市民の憩いの場とし、歴史伝説を有する史跡のイメージを残すため史跡公園として整備した。 ・ 天上寺は現在復興され、この史跡公園より北へ700mの地(開祖の地とされる元摩耶:縦走路沿い)へ移転している。 ■ 関連ページ 摩耶山史跡公園 |
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| 摩耶山史跡公園 仁王門 | ・ 旧天上寺の仁王門。門の前には「下乗」と書かれた碑がある。参詣者はここで馬や駕籠から下りて、徒歩で境内に向かったという。 ・ かつては門の両側に仁王像が安置されていたが、現在は山上の天上寺の金堂の両脇に安置されている。門をくぐった急な階段の両側には、室町時代には300あったという塔頭や茶店が斜面に張り付くように並んでいた。 ■ 関連ページ 摩耶山史跡公園 |
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| 摩耶の石舞台 | ・ 摩耶山掬星台からオテル・ド・摩耶に向う途中にある。摩耶の石舞台からは、山の端と眼下の市街地が見渡せ、清水の舞台にも似ていることからその命名がされた。 ・ 平成24年4月に摩耶山を守ろう会40周年記念事業として命名された。 ■ 関連ページ 摩耶の石舞台 |
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| 摩耶の大杉 | ・ 摩耶山中腹にある大杉で、市街地から眺めても一際目立っている。旧摩耶天上寺の塔頭の一つであった蓮華院の西側に位置し、幹周り8mもある大木であった。 ・ 昭和51年の旧天上寺の大火災の後、火を被ったことが原因で、徐々に樹勢が衰え、枯死してしまった。 ■ 関連ページ 摩耶の大杉 |
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| 摩耶別山 | ・ 天上寺の裏参道を登り、水道局の施設あたりが摩耶別山の頂上。 「元摩耶」とも呼ばれ、646年法道仙人が開創した天上寺創設の地でもある。 ・ 標高は摩耶山より高く717m。 ■ 関連ページ 摩耶別山 |
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| 丸山湿原 | ・丸山湿原群は宝塚市北部西谷地区の丸山(標高328.4m)の南西側の山間に位置する5つ湿原からなる湿原群です。県下随一の面積と生物多様性を誇る湧水湿原で、湿原に特有のさまざまな生き物がみられる非常に貴重な場所になっています。そのため、現在では「地域の宝物」として、地域住民、企業、行政などが一緒になって丸山湿原群を未来に残していくための取り組みが進められています。 ■ 関連ページ 丸山湿原 |
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| 回る十国展望台 | ・ ガーデンテラス北側の丘の上にあった施設。 ・ 昔の山城、大和、摂津、河内、播磨、淡路、阿波、和泉、紀伊、丹波の十国が居ながらに見渡せることから命名された展望台。回転式の3層展望台で、約5分で一回転し360度の大パノラマを楽しむことができた。 ・ 昭和32年に開業し多くの人に親しまれたが、平成14年11月に惜しまれながら幕を閉じた。灘百選のひとつ。 ・ The mark of "Jukkoku-observatory" ■ 関連ページ |
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| 三国池 | ・ 三国岩から南西に約3分歩いた林の奥に広がる池。 ・ 六甲山の開祖グルーム氏がこの池のほとりに住居を建て、「101番館」と名付けた。池のほとりに「101」と刻まれた石柱が残っている。 ■ 関連ページ 三国池 |
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| 三国岩 |
・ 旧矢田部(矢部)郡、莵原郡、有馬郡の境界点にあり、巨石が三つ積み重なっていることからこの名が付いた。 ・ 岩肌には無数の小さな穴凹があり、光の当たり方によっては人の顔や文字のようなものが浮かび上がるといわれています。(7月の下旬、太陽の位置によって岩の表面に人面のような彫り物が浮かび上がるといわれるミステリースポットでもある。) ・ この岩の北奥にも、しめ縄の張らられた大岩がある。 ■ 関連ページ 三国岩 |
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| みよし観音 |
・ 六甲ガーデンテラスの南西で、縦走路から石切道へ下る地点のやや西にある。 ・ 昭和39年の雪の降る朝、大阪から徳島に向かっていた飛行機が遭難した。搭乗していたスチュワーデスの麻畠美代子さんは、冷静に7人の乗客を救出した後、最後の1人を救出しようとして、航空機の爆発に遭い、猛炎と共に帰らぬ人となった。21歳であったという。心やさしかった彼女の悲壮な捨身行は、観音様の化身であろうと受け止めた人々によって、その後、このみよし(美代子)観音が建立された。 ■ 関連ページ みよし観音 |
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| 妙見寺 |
・ 有馬三山の一つである落葉山の山頂にある。 ・ 鎌倉時代、元真言宗金杖山金剛寺を法ケ宗(現日蓮宗)に改宗。本尊の福徳開運北辰妙見大菩薩尊像は後小松天皇の勅願にて、三代将軍足利義満公が捧持。有馬の鎮護にと祀られ、明治39年愛宕山の麓より落葉山の山頂に移した。 ・ In the Kamakura era, the temple was originally of the Shingon sect of Konjo-zan Kongo-ji but converted to the Hokke sect. The enshrined statue of Fukutoku-kaiun-hokushin-myoken Dai-Bosatsu (Bodhisattva) was donated to the temple at the request of the emperor Go-Komatsu by Ashikaga Yoshimitsu. The temple was dedicated to becalm Arima. In Meiji 39(1906), the temple was moved from the foot of Mt.Atago-yama to the summit of Mt. Ochiba-yama. ■ 関連ページ 妙見寺 |
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| 虫地獄 |
・ 魚屋道を有馬温泉に下りついたところにある。射場山と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼ぶが、この谷は数十万年前の地殻変動のときにできた射場山断層である。射場山断層の割れ目からたくさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥などが死んだのでこの名の由来がある。この付近に湧き出ている炭酸水は、かつてはその成分がわからず、町民から毒水として恐れられていた。明治以降に虫や鳥が死んだのが炭酸ガスのせいだとわかった。 ■ 関連ページ 虫地獄 |
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| 紅葉谷道 |
・ 六甲山上の極楽茶屋跡から有馬温泉に至る道。 ・ 道中には、ブナ、イヌブナ、カエデ類など紅葉や新緑の美しい樹木が豊富。この辺りの気候は青森付近など東北地方に似ているので、六甲山域の他の地域と異なり、ブナやイヌブナの混じった落葉広葉樹林となっている。秋にはその名の通り紅葉が見事。 ・ 有名な「有馬四十八滝」はこの道の近くにある。 ■ 関連ページ 紅葉谷道 |
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| 山田道 | ・ 湯ノ山街道上の谷上方面から修法ケ原を経て、山上に登る道筋。六甲山系の稜線を越した後、大師道(再度谷道)へと入る六甲越えの重要な路であった。 ・ この山田道と大師道(再度谷道)は牛馬の背に乗る物資の運搬路として利用された。
■ 関連ページ 山田道 |
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六甲アルプス |
・ 地獄谷東尾根にある693m高地から20分ほど登った辺りから東に向かってのびる枝尾根をいう。六甲アルプスの尾根を下ると、裏六甲ドライブウェイのカーブ37の所に降りつく。 ・ 風化した岩石の痩せ尾根が、まるで恐竜の背のようになって続いているスリリングなエリア。落石の危険があるので、走行には十二分に注意が必要。 ■ 関連ページ 六甲アルプス |
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| 六甲枝垂れ |
・ 六甲の自然を体感できる自然観察展望台として六甲山回る展望台跡地に平成22年にオープンした。 ・ 自然エネルギーを活用したエコ仕様が自慢。外観はヒノキを網目状に組んだユニークなデザイン。冬には着氷し六甲山名物の樹氷のようになる。 ■ 関連ページ 六甲枝垂れ |
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| 六甲大通り (グルームコース) |
・ 縦走路のうち、六甲山小学校からカレーライスの登六庵を経て東に伸びる通り。六甲山上で最初につくられた大通り。 ・ 東西に伸びる尾根を利用して開かれた変化に富んだ散策道で、この辺一帯に欧米人の山荘が点在し、大正から昭和初期にかけて賑わいだ。 ■ 関連ページ 六甲大通り |
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| 六甲最高峰 |
・ 東西30km、南北8kmにも及ぶ六甲山系の中でてっぺんに位置する。(六甲山という山名はないので、六甲山最高峰と呼ぶ。) ・ 標高931.25mだが、傍らの国土地理院等が設置した三角点の説明盤には931.13mとある。阪神淡路大震災で12cm高くなった。 ■ 関連ページ 六甲最高峰 |
参考させて頂いた主な著述
・摩耶WALK摩耶山さんぽ手帳(摩耶協議会)
・まるごと六甲山(国立公園六甲山地区整備促進協議会:2009/10)
・六甲山の楽しみ発見マップ(神戸県民局)
・神戸の道標(山下道雄他著 神戸新聞出版センター)
・北神急行ハイキングマップ(北神急行電鉄)
・須磨歴史紀行(須磨区まちづくり課)