六甲山もの知り帳
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 四季を通じて山歩きが楽しめる六甲山。その六甲山を更に楽しむために、地名や名称の説明や謂れを整理して一覧にしてみました。
 出典は、六甲山などの山中を歩き回っているときに確認した案内板や看板に記載された説明文を中心として、その他山中の施設等で配布されている各種パンフ等によっています。
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■アイスロード
・ 明治から昭和初期の六甲山上では、厳冬期には気温が零下15度まで下がり、池には分厚い氷が張りつめた。明治7〜8年頃、この氷に目を付けた神戸の浅井は三宮に、京都の山田は栄町に、それぞれ日本で初めてと思われる氷屋を開業した。山頂付近の大小30の池の大半はその当時採氷のために掘られたものである。凍った氷は大きなのこぎりで厚さ15p巾90p角に切り取り、2枚を貼り合わせ厚さ30pとして氷室で保存された。これを春から夏にかけて深夜、大八車に積んで山を降りる。この道筋は土橋から旧全但ホテル前へ出る険しい前ヶ辻道で、氷を運んだことに由来して「アイスロード」と呼ばれた。この山道を運びおろし寒氷として病人用には一貫匁(3.75kg)明治末の価格で5銭くらい、食用としてはコップ一杯1銭くらいで売られ、当時としては高価なものだった。この天然氷も人口製氷が発達するともに姿を消し、昭和4年春、記念碑台そばの黄楊(つげ)池で採氷したのが最後となった。《アイスロード真水茶屋跡にある「アイスロードの由来」看板による》
■ 関連ページ アイスロード
   
■藍那古道
・ 山田の丹生山麓にあった鷲尾家跡の横から藍那に通じる約5kmの古道。現在は神戸市太陽と緑の道となっている。
・ 平家追討のため、義経がこの道を通って進軍したと伝えられる。
■ 関連ページ 藍那古道
   
■青石古墳
・ 本古墳は、標高約250mに立地し、谷地形の奥、南西に傾斜する山地斜面に造られた円墳です。直径約13mで内部には横穴式石室が築かれています。石室は全長7.16m、幅1.4mを測り、中央部分の幅が広い「胴ばり」状を呈しています。昭和41年に発掘調査が実施され、須恵器や土師器、鉄釘が検出されました。石室の形や出土遺物から7世紀に造られたことがわかります。(出典:青石古墳脇の看板「西宮市教育委員会」)
■ 関連ページ 青石古墳
   
■青谷道
・ 古くから摩耶山天上寺の参詣道として親しまれてきた道。青谷川の瀬音を聞きながら歩ける摩耶山の古道。
・ 道中に行者茶屋や岩屋の滝などがあり、行場の雰囲気が漂う道でもある。
■ 関連ページ 青谷道
   
■芦屋ロックガーデン
・ 花崗岩が風雨の浸食によって作り出された特異な景観地。
・ 1924年ころから、ロッククライミング・クラブの人々によって、登山練習が始められた近代登山の発祥地である。
■ 関連ページ 芦屋ロックガーデン
   
■敦盛塚
・ 平敦盛の供養のため建てられたという大きな五輪塔。北条貞時が平家一門を供養するために建立し、「あつめ塚」といわれていたものが「あつもり塚」と呼ばれるようになったという説もある。敦盛は、一の谷の合戦で源氏の武将の熊谷直実に討たれ16歳で命を落とした。大正時代には子供の病気の神様として信仰され、御礼参りには敦盛愛用の「青葉の笛」になぞらえて、穴をあけた竹に白紙を巻き、水引をかけたものを奉納したと伝えられている。
■ 関連ページ 敦盛塚
   
■油コブシ
・ 六甲ケーブル下駅から山上駅、天覧台まで続く尾根道を油コブシ道という。その尾根道の途中の三角点のピークが油コブシである。
・ 昔、灘の油商人が六甲を越えて、有馬などへ油を運ぶ途中、この辺りの難所で油をこぼしたのでこの名がついたという。
■ 関連ページ 油コブシ
   
■有馬温泉癒しの森
・ 有馬温泉の南側は豊な自然に囲まれている。この自然により親しんでもらうため、遊歩道や休憩所をつくり、一帯を整備した(平成19年)。
・ 癒しの森には、筆屋道(優れた竹のあった有馬は、江戸時代筆屋が軒を連ねていたことにちなんで)、魚屋道、炭屋道(炭焼窯の残る道)が整備されている。
・ Healing forest of Arima
■ 関連ページ 有馬温泉癒しの森
   
■有馬四十八滝
・ 有馬温泉の南側、紅葉谷道沿いに、七曲滝や百間滝など数々の滝が見れらる。これらを総称して有馬四十八滝とよぶ。
・ これらの滝で冬に見られる氷瀑は見事で、ツララ状の氷が岩盤を覆い、非常に美しい。(近年は温暖化により滝が凍ることは少なくなっているという。)
・ 48 waterfalls in Arima
■ 関連ページ 
   
■荒地山
・ 荒地山の最高地は549mで、鷹尾山(城山)の背後にそびえ立つ山塊である。東は芦屋川の渓谷で、北は黒越谷によって花原盆地に、南は道畦(馬ノ背)の鞍部によって鷹尾山に続いている。その名のように全山岩肌を露出した粗粒花崗岩で、風化がひどく登山にも時々落石があって危険である。また南に位置する岩梯子という奇怪な洞門は、昔七右衛門と呼ぶ純真な若者が世をすねて酒酔享楽の末、盗みを覚え有馬へ向かう山越えの行商人を襲い続けた。元来、荒地の山には石の宝殿に祭る権現様が住んでいて悪事を働くものを連れ込むと伝わっていた。
・ 七右衛門はこの岩穴で頭をくじかれてたたり死にしたという伝説を生んだところとして名高い。この洞門を七右衛門ーという。平成7年1月17日の阪神淡路大震災で崩れたため現在の洞門は新七右衛門ーとよばれている。(荒地山山頂:芦屋市市民生活部経済課設置の案内による)
■ 関連ページ 荒地山
   
■錨山
・ 明治36年、神戸港沖での明治天皇臨幸の観艦式の際に、学童や市民15,000人が日章旗をもって錨を形作り歓迎した。それを記念して錨の形に松を植えたのが名前の始まり。
・ 昭和56年、神戸ポートアイランド博覧会を記念して、電飾の設備が設置された。電力は風力と太陽電池で発電し、昼間の余剰電力は関西電力に売電している。
・ 錨山の風車はプルーベン社製ダウンウインド型風車で、一般の風車と違いプロペラ背面より風を受けて回転する。風が強くなるとプロペラを風に沿って傾斜できる構造という。
■ 関連ページ 錨山
   
■石切道
・ 昔、六甲山で切り出した花崗岩は、牛車等で運び御影の浜から各地に出荷したので「御影石」の名で広く知られるようになった。この石の切り出しに利用されたので石切道という。
・ 摂津名所図会には京都や大阪などの近畿一円の石橋、鳥居、伽藍の礎石、燈篭などがこの御影石で作られたとされている。
■ 関連ページ 石切道
   
■石井ダム
・ 神戸電鉄、旧菊水山駅の近くにある重力式コンクリートダム。新湊川の洪水調節を主な目的として建設された。
・ このダムの工事中は、菊水ルンゼ、名号岩などへのアプローチが不可能であったが、工事完了後の平成18年11月19日からダム周辺のコースが一般に開放された。
■ 関連ページ 石井ダム
   
■石宝殿
(いしのほうでん)
・ 後鉢巻山のトンネルの東に見える赤鳥居から坂を登ると白山神社がある。この境内にある祠を石宝殿という。
・ 昔、日照りが続くと、麓の村人が雨乞いのため沢蟹や蛙を投げつけて祠を汚した。すると神様が怒って、祠を清めるため雨を降らせたという。
■ 関連ページ 石宝殿
   
■一ノ谷
・ Suma Ichinotani (Drop down)
・ Miyamoto Yoshitsune's cunning attack, the Ichinotani drop down, took place at the steep slope looking over the sea on the eastern face between Mt.Hachibuse and Mt.Tekkaisan towering to the north of Sumaura park. In the early morning of the seventh of February 1184, Yoshitsune led a brigade of more than seventy horsemen down a steep slope only traversed by deer, dropping down to attack the Ichinotani camp and securing a one-sided victory for the Genji forces in the battle of Genpei. It is said that the path from here leading to the ruins of the Emperor Antoku's place is the path that the horcemen took. There is also a theory that it is in the area of Hiyodori Goe(north of nagata and Hyogo wards).
■ 関連ページ 一ノ谷
   
■岩倉山
・ 東六甲縦走路の山。神が座す磐座(いわくら)の意からこの名となった。
■ 関連ページ 岩倉山
   
■上野道
・ 上野道は古くから天上寺への参詣道として利用されました。尾根を歩くコースのため、展望台が数多く設置され、神戸の町や大阪湾を望むことができます。
・ 上野道は「町石道」とも呼ばれ、摩耶ケーブル駅にある町石をはじめ数基の町石が残っています。
・ ビューライン虹の駅近くには高尾明神社という祠があり、摩耶合戦(太平記)の赤松円心ゆかりの「幡掛の松」があります。
■ 関連ページ 摩耶古道・上野道
   
■産湯の井
・ 摩耶山掬星台から摩耶自然観察園へ下りた所にある。お釈迦様が生まれたときに八大竜王がこの井戸の水を口に含んでインドへ飛行し産湯にそそぎかけたという言い伝えがある。
・ 産湯の井で汲まれた水は閼伽水(あかすい)といわれ、天上寺の本尊に供えられる。
・ 昔、里人がこの水を竹筒に入れて持ち帰り赤ちゃんの産湯に使ったのでこの名があるとも言われる。霊峰摩耶の地下から湧き出る水を神聖なものと信じ、これを産湯に使うことによって、子供達の無病息災と健やかな成長を願ったものとされる。
■ 関連ページ 産湯の井
 
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外国人墓地
(神戸市立)
・ 再度公園の北に位置する外国人墓地。外国人墓地は、1867年(慶応3年)小野浜(現在の中央区浜辺通り附近)に兵庫開港と同時に日本政府により設置された。更に1899年(明治32年)春日野(現在の中央区篭池通り4丁目(旧春日野町)にも設置された。しかし、両墓地がいっぱいになり1952年(昭和27年)、1961年(昭和36年)に、この自然に囲まれた約14haの聖地に世界56ケ国2500柱有余の墓碑が宗教別に配置された。宗教数は20余り。
・ Kobe Municipal Foreign Cemetery
 The first foreign cemetery was created by the Japanese Government in 1867 at Onohama (Hamabedori ,Chuo-ku, at present) a few days before the opening of the Hyogo port.
 Later one more cemetery was created in 1899 at Kasugano.
 However as both cemeteries became filled, a new cemetery was created in the year 1952-1961 near Mount Futatabi at the beautiful nature spot of 14 hectares.
 At present , about 2,500 grave stones , from 56 countries in the world separated according to religion have been arranged there.
 Many members of the bereaved families come to visit the graves from far-away countries throughout the year.
■ 関連ページ゙ 外国人墓地
   
学習の森
・ 神戸市立森林植物園の展示林のひとつ。
・ 六甲山地の自生植物を主に収集・植栽し、多種の野鳥や昆虫たちの生息する環境作りを行っている
■ 関連ページ 学習の森
   
ガーデンテラス
・ 平成15年4月、凌雲台のホテル跡にオープンしたヨーロッパの田舎の邸宅と庭をイメージしたくつろぎ空間。雑貨ショップやカフェがある。展望台(見晴らしの塔)からの眺望は昼も夜も最高といわれる。
■ 関連ページ ガーデンテラス
   
鎌倉峡
・ 金仙寺湖から流れ出る船坂川が武庫川と合流する中間にあり、小さなゴルジュの連続する美しい谷です。鎌倉時代、執権を引退して諸国巡礼をしていた北条時頼(最明寺入道)がしばらく滞在したといわれています。(出典:神鉄二郎駅の近畿自然歩道の看板「環境庁・兵庫県」)
・ 江戸時代の摂津名所図会には、鎌倉峡を「かもしか谷」のなまったものだと記するとともに、百丈岩については「高さ数十丈尺、岩上には百畳を敷けるより名とす」と述べている。室町時代より、有馬温泉を訪れた文人や高僧たちは、競ってこの地を訪れて、奇勝景観の美を絶賛した詩歌や紀行文をものすることを風流とした。(出典:百丈岩やまびこ茶屋脇の看板「神戸市北区役所・道場町連合自治会」)
■ 関連ページ 鎌倉峡
   
烏原貯水池
・ 明治38年完成の高さ33mのダムである。周囲は「水と森の回遊路」として整備され、一周約2.7kmある。
・このダムの築造のために烏原という村が湖底に沈んだ。この村の地勢は四面連山の中に起伏があって、中央部のやや平坦な辺りに人家が点在し、水没時の村は98戸で、人口414人であった。この村で生産される木皮細末の線香原料粉は、品質優秀で全国から需要があったといわれている。
・貯水池の護岸には線香造りに使用されていた石臼が160個使用されている。離村するにあたり村人がその足跡を残したものである。石臼の材質は花崗岩で、外径55cm、深さ20cmの大きさがあり、据え付けに当たっては水がたまらないように、最下部に小さな孔があけられている。
■ 関連ページ 烏原貯水池
   
菊水山
・ 山田村と神戸郡の境界の目印とされていた山。昭和10年の大楠公六百年祭で松を菊水の形に植樹したことからこの名が付いた。
・ 山頂からは大阪湾の彼方に紀泉の山々や明石海峡、淡路島まで望める。
■ 関連ページ 菊水山
   
掬星台
・ 摩耶ロープウェイ星の駅東側の広場。「手を伸ばせば星が掬えるほど空に近い」ということで掬星台(きくせいだい)と名付けられた。眼下に横たわる市街地は光の大河さながらのまばゆい輝きを放っています。また、まやストーンで彩られた遊歩道「摩耶・きらきら小径」は夜の輝きが抜群。まるで幻想的な天の川を思わせます。
・ 長崎市(稲佐山)、函館市(函館山)と共に日本三大夜景の一つ。
・ One of the three most famous night view in JAPAN, "the 10 million dollar night view" from Mt.Maya's Kikuseidai will take your breath away. The shoreline of the Bay of Osaka and Kobe city centers in the foreground creates a dynamic world of light.
■ 関連ページ 掬星台
   
北向厄除八幡神社
・ 北向(きたむき)厄除八幡神社は、源平合戦のとき、那須与市宗隆がこの神社を守護神として戦場にのぞみ、武運をまっとうした。その後、与市はお礼のため再びこの地を訪れ参詣したが、たまたま病に罹りこの地で死去したという伝説がある。1921(大正10)年ころ、境内に与市を祀る那須神社を勧請している。
・ 北向厄除八幡神社は通称北向さんといわれ、内陣に大国主命が祀られており、出雲に対しての敬意から北向きに建立されたと謂われている。一ノ谷合戦で源義経は、村人から御神威が高く飛ぶ鳥でさえ社殿の上空を飛べない社があると聞き、那須与一に武運長久を祈らせた。戦乱の後、与一は御礼参りにここを訪れたが、中風のため当地で亡くなったとも伝えられている。この神社境内には那須神社もあり、道路を渡った西側に与一の墓がある。
・ Kitamuki Yahata Shinto shrine. This shrine is commonly known as "Kitamuki san"(Facing north).The God Okuninusi-no-Mikoto is enshrined here and it is said that it was constructed facing north out of respect for the Isumo area. During the battle of Ichinotani Yoshitune heard from villagers that there was a shrine with so much heavenly power that even birds could not fly in the sky above the towers and he sent Nasuno Yoichi to this shrine to prey for fortune and prosperity in the war. After the chaos of the war it is said that Yoichi paid a visit to the shrine to pray, but he was struck with paralysis and died.
■ 関連ページ 北向厄除八幡神社
   
木津磨崖仏
・ 100mに及ぶ崖の岩石に仏像が刻まれている。中央に阿弥陀如来の坐像、左右に三体ずつの地蔵菩薩の立像があり、旅人の往来安全を祈願して彫られたもの。1467年の銘版がある。
■ 関連ページ 木津磨崖仏
   
記念碑台
・ 明治の神戸開港の頃、居留地に商館を持つA.H.グルームは三国池の湖畔に別荘を建て登山道を整備した。六甲山をこよなく愛したグルームの功績を称え、明治45年にこの地に「六甲開祖之碑」が建てられた。
・ 記念碑台には六甲山自然保護センターがある。
■ 関連ページ 記念碑台
   
近畿自然歩道
・ 近畿自然歩道は、2府7県にまたがり、福井県敦賀市から兵庫県南あわじ市まで3.258kmに及ぶ長距離自然歩道である。
・ 兵庫県内は65コース、約590kmが整備されており、六甲山系のコースは六項全山縦走コースにも利用されている。
■ 関連ページ 
   
金星台
・ 諏訪山公園のこと。明治7年にフランス人天文学者ジャンセン氏らがこの地で金星観測を行ったことから名付けられた。一角に「金星過日測検之處」と彫られた記念碑が建立されている。(明治7年12月9日、金星の太陽面通過という現象が起こり、長崎、神戸、横浜などで欧米各国の観測体により観測がなされた。神戸ではフランスのの別働隊が諏訪山で観測を行った。)
・ 金星台は上空から見ると、星の形をした高台となっている。
・ 金星台には「金星観測記念碑 Venus Observation Memorial」がある。この碑に用いられている円柱形の石材は、安政の大地震のときに被損した生田神社の「折れ鳥居」を再利用したもの。
■ 関連ページ 金星台
   
雲ケ岩
・ 六甲山カンツリーハウスの北西の小高い山中にある。真っ二つに割れて奇妙な形をした大岩。辺りには心経岩、仰臥岩や六甲比女大神がある。
・ 法道仙人がこの地で修行中、紫の雲に乗った毘沙門天がこの岩の上に現れたといわれる。
・ 六甲比女大神人が陰でこの雲ケ岩が陽を形成しているとの説もある。
■ 関連ページ 雲ケ岩
   
高座の滝
Koza Waterfalls
・ 芦屋ロックガーデンの入口にある滝。高さ約10m。昔は修験者の道場として有名であった。滝の傍らには護摩堂がある。
・ 滝の横には、ロックガーデンの名を顕揚した藤木九三のレリーフがある。
■ 関連ページ 高座の滝
   
五鬼城
・ 五鬼城之由来
 昔この地に五鬼氏と云う豪族が住んでいた。其頃この辺りは昼尚鬱蒼たる大森林に覆われていた。この自然の要塞を砦として外敵のしばしばの襲来にも一度として敗れた事なく、従って一族は益々隆盛を極めて繁栄したものである。当時この附近に住む土着民達の暮らしは大変貧しく、「病気、貧乏、ふしあわせ」等で苦しむ人々が多く、実に憐れな生活であった。この姿を見た五鬼氏は五情の戒めを説いて幸せの道として多くの人々の救済に尽くされたこの素晴らしい遺徳を賛えて、永くこの地の守護神とされたが、今では僅かに五鬼城の名称のみ残されているに過ぎない。
■ 関連ページ 五鬼城
   
五助堰堤
・ 五助堰堤は住吉川上流、五助谷との合流点に建設された砂防ダム。コンクリート造り堰堤の本堰堤(幅78m、高さ30m、昭和32年建築)と副堰堤(昭和33年建築)からなり、表面を花崗岩又は安山岩の谷積で精緻に仕上げている。
 六甲山系の砂防施設で最大規模。国指定近代歴史遺産
■ 関連ページ 五助堰堤
   
五本松かくれ滝
・ 布引貯水池のダムの放水路としてつくられた滝。布引ダムがオーバーフローした時のみ流れることからこのネーミングとなった。
・ 滝の名称が募集され、平成19年6月に「五本松かくれ滝」と決定された。
■ 関連ページ 五本松かくれ滝
   
ゴロゴロ岳
・ 山の高さが565.6mであったことからこの名が付いたという(ただし、現在の三角点の標高は565.30m)。本来の名は剣谷山。
・ 六甲連山の中で唯一“岳”の名がつく山である。
■ 関連ページ ゴロゴロ岳
   
金剛童子山砦
・ 金剛童子山砦は「北神地方城郭の記」にその名が記されているが、築城は永禄年間(1558〜70)頃と推測されているものの、創築者等その他の城史については不詳である。 山田荘の谷筋からは、かなり奥まった金剛童子山の山頂に数個の削平地が確認され、直ぐ西方には花折山砦や、南西方向に柏尾城・柏尾西砦・柏尾南砦等が隣接する位置にある。
■ 関連ページ 花折山・金剛童子山

 
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桜谷道
・ 摩耶山の産湯の井の水が小さな沢となって布引へ下っている。この沢沿いの道が桜谷道で、徳川道のヌクトゲートロック辺りに下りつく。
・ この道を下り、穂高湖から流れてきた川との合流地点のヌクト河原は摩耶古道のオアシス。
・ 関連ページ 桜谷道
   
猿のかずら橋
・ 六甲山の瀬戸内海国立公園編入50周年を記念して、布引谷にある金属性だった「猿のかけ橋」をサルナシのツルで装飾したもの。2006年5月 六甲楽学会
・ 関連ページ 猿のかずら橋 猿のかけ橋
   
しあわせの村
・ 歴史的背景から見たしあわせの村  「しあわせの村が位置しているのは平安時代の末、源氏、平家が権力争いの末に行われた三草山の合戦から一の谷の合戦に至るまでの間、義経軍が通過したと思われる地にある。義経軍は、三草山で勝利を収め、その後平師盛が敗残の兵をまとめて一の谷の本陣に合流した。これを義経は追い、山田の庄小河村まで来たが、山中で闇夜であったこともあり、進軍できずにいた。その時に鷲尾経春という道案内人を得て、この案内人により、藍名(那)村から鵯越を通って夢野に向かったが、夢野には平家の軍が待ちかまえていたので、義経は鵯越に引き返し、白川村を通り、妙法寺村から多井の畑まで行き、一の谷に進軍した。この鵯越で義経軍の中から選抜された十数騎が鵯越から直接一の谷に向かった。このルートを鵯越の逆落といい、現在はこのしあわせの村付近から鐵拐山に至るまでのルートをさしているようである。(兵庫県史より)」
・ しあわせの村は、神戸市が1989年に市制100周年事業として、市内北区の山田町に整備した福祉公園である。財団法人こうべ市民福祉振興協会が運営・管理している。
・ 園内には、各種スポーツ競技場・キャンプ場・宿泊施設などのスポーツ・レクリエーション施設、リハビリテーション病院や高齢者・障害者の方を対象とした福祉サービス施設がある。
■ 関連ページ 松茸山 しあわせの村
   
志久道
・ 山田町から淡河町に通じる古道の一つ。
・ 南へは大原山(今の大原中学の辺)、西小部、鈴蘭台、烏原谷を経て神戸へ通じていた。昔は宿越とも呼ばれ、今も残る石畳道や茶屋の跡、旅人の安全を祈り、弘法大師や大日如来などが祀られており、往時を偲ばせてくれる。
■ 関連ページ 志久道
   
シェール道
・ 三国池辺りから出ている布引川(生田川)の源流に沿う道。飛び石や木橋で川を渡るポイントが楽しい。
・ ドイツ人のシェール氏が好んで歩いたことから命名されたという。
■ 関連ページ シェール道
   
シェール槍
・ 穂高湖畔にそそり立つ三角形の峰がシェール槍。穂高湖周遊路から登山路があり、登ることが可能。
・ 頂上は360度の絶景、眼下には六甲山牧場や穂高湖が広がる。小さいピークだが達成感あり。
■ 関連ページ シェール槍
   
地獄谷
・ 地獄谷の名前は、一般的にはその谷の景観から名付けられたと思われるが、六甲山系で地獄という名前を持つ谷は、裏六甲の地獄谷(大池地獄谷)、鍋蓋山(鍋蓋山から天王ダムに下る谷筋)、芦屋ロックガーデンと大月地獄谷がある。
・ 一般には、大月地獄谷と大池地獄谷がよく知られており、それぞれ表地獄谷、裏地獄谷と呼ばれることが多い。
■ 関連ページ 大池地獄谷芦屋地獄谷
   
蛇ケ谷
・ 再度山と高雄山の間の谷。
・ 神護慶雲年間、和気清麻呂が塔を建立のため再度山へ登る途中、道鏡の刺客に今にも殺されんとした時、大龍が現れて救われた。かくして、頂上に清麻呂公建立の寺を大龍寺と名づく。
■ 関連ページ 蛇ケ谷
   
修法ケ原
・ 再度公園の西側。修法ケ原大師堂がある。
・ 延暦23年(804年)、弘法大師(空海)が入唐求法の旅に出られる前にここを訪れ、航海の無事並びに新しい仏法習得を祈願された。願いが叶い、無事中国に渡り唐の都、長安の青龍寺にて恵果和尚より真言密教を習得し、2年後に再度当地に登られ無魔成満のお礼参りをされた。よってこの地を修法ケ原という。
■ 関連ページ 菊水山・鍋蓋山〔神鉄ハイク〕
   
鷲林寺
・弘法大師が観音霊場を開こうとこの地を訪れたとき、ここを支配するソランジンという大鷲が現れ火焔を大師に吹きつけた。大師は清水に浸した木の枝でそれを防いで大鷲を桜の霊木に封じ込めた。その霊木で鷲不動明王を刻んだので寺号が鷲林寺とされた。
・ 戦国時代に寺領は侵略押収され、織田信長により諸堂塔はすべて焼き滅ぼされたが、昭和になりやっと復興された。
・ 「武田信玄が僧侶になるため得度をしその頭髪を埋めた」という伝説がある、七重の石塔がある。
■ 関連ページ 鷲林寺
   
シュラインロード
・ 前が辻から麓の唐櫃の村までを結ぶ道で、道沿いに野仏が設置されていることからこの名がついた。これらの野仏は、道中の安全を願って唐櫃の村人により建立された。唐櫃道、行者道ともいう。
・ 野仏は、西国33箇所になぞらえた観音様の石仏33体と、大日如来などの番外の石仏4体とで合計37体である。
■ 関連ページ シュラインロード
   
猩々池
・ 大師道沿いにある溜池。
・ 「摂津の国、四カ村の地は、みな土地が高く水が乏しいので、日照りの年はいつも村民は苦労した。花隈村長の村上尚善はこれを心配して1790年(寛政2年)村民を集めて相談し、貯水池を造ることにした。しかし、意見が一致せず数度の請願にも役所の許可が得られなかった。正しい筋道を好み慈愛深く国に役立つ志の強かった二つ茶屋村長の橋本邦直は、1845年(文化12年)村民の意見をまとめ代官の許可を得て6月に工事を着工した。翌年8月水深約25m南北約117m東西約68mの池が完成した。村上尚善の建議以来26年が経っていた。老人たちは池の完成を喜び酒樽を用意し池のほとりに代官を迎え、猩々の謡曲で宴に興をそえた。これによって代官はこの池を猩々池と命名した。」
■ 関連ページ 猩々池
   
知るべ岩
・ 座頭谷の入口、太多田川の河原にある大岩。
・ 昔、京の都に住んでいた座頭が療養のため有馬へ急ぐ途中、道を誤り座頭谷に迷い込み、飢えと寒さのためになくなった。付近の人は座頭を弔い、この谷を座頭谷と呼ぶようになった。太閤秀吉が有馬へ湯治に行くときこの話しを聞き、「右ありま道」と大岩に揮毫した。その岩が知るべ岩と呼ばれるようになった。
■ 関連ページ 知るべ岩
   
白鬚白菊大明神
・ 前ヶが辻にある神社。
・ 猟師に追われた狐がグルームさんの別荘に逃げ込み、氏に助けられてから、同邸に住み着いてしまった。グルームさんが空き缶をフォークでたたいて食事の合図をすると、親子の狐が四、五匹喜んでやってきて、氏の膝を枕に居眠りをするほどになついたが、氏の他界後は一度も姿を見せなくなってしまった。その後、グルームさんの娘、リウさんがこの狐にまつわるいろいろの不思議に出会い、家に祀っていた狐夫妻を現在地に移し(昭和8年)、白鬚白菊大明神と名付けて六甲山の護りとした。それ以来、山上の人々に深く信仰されている。《白鬚白菊大明神にある説明版より》
■ 関連ページ 白鬚白菊大明神
   
心経岩
・ 六甲山カンツリーハウスの北西の小高い所にある。辺りには雲ケ岩や仰臥岩もある。
・ 昔、法道仙人の時に心経を掘り刻まれた。現在あるのは大正5年頃に再建されたもの。
■ 関連ページ 心経岩
   
森林植物園
・ 「六甲山の山並と自然を背景に、端正な樹形をした針葉樹を林として植栽し、四季を彩る落葉樹や花木をそえる」という構想の下に、昭和15年に創設された総面積142.6ヘクタールの樹林を見せる植物園。六甲山を始め日本の代表的な樹木や世界各地の樹木を原産地別に植栽している。
・ 日本や世界の森めぐりをし、早春の花々や新緑、梅雨のあじさい、晩秋の紅葉、冬の木立ちと四季折々の自然が楽しめる。神戸市立(Kobe Municipal Arboretum)
■ 関連ページ 森林植物園
   
瑞宝寺公園
・ 瑞宝寺は1604年にこの地の大黒屋宗雪が開いた瑞宝庵にその緒を発している。宗雪の孫が宇治黄檗山万福寺に帰依して、木庵禅師より愛宕道空を受号し、1673年に帰山してる瑞宝寺開基となり、その基礎を確立した。その後、文化年間に楓桜の植樹がなされた。山門は、明治初年、伏見桃山城から移設された。
・ 日暮らしの庭とも呼ばれ、紅葉が美しい。庭内には、秀吉が碁を打ったといわれる石の碁盤が残される。
・ 毎年11月2、3日には有馬大茶会が催され、園内には野点席が設けられる。
■ 関連ページ 瑞宝寺公園
   
住吉道
・ 表六甲と有馬を結ぶ道としては、魚屋道が一般に利用されていたが、明治7年東京〜神戸間に鉄道が開通し、住吉駅が出来てから、有馬への道としてこの住吉道が脚光を浴びた。
・ 明治40年に阪鶴鉄道(今の福知山線)が開通してからは、三田駅が有馬の表玄関になり、住吉道は衰微した。
・ 昭和13年の水害でひどく損壊したが、その後自然歩道として整備され、今では多くのハイカーに親しまれる道となっている。
■ 関連ページ 住吉道
   
諏訪山
・ 諏訪山一帯は、かつては諏訪山神社を中心として動物園や温泉があり、多くの著名人が訪れるなどおとづれるなど、神戸市民の行楽地となっていました。明治7年には金星台でフランス観測隊が金星観測を行いました。 明治24年にはニコライ2世が大津事件の前日に来訪していたという記録もあります。現在グランドのある場所は明示40年に池が埋め立てられて整備され、明治天皇御休憩処が建てられましたが、昭和20年空襲で消失しました。また、武徳殿があり、神戸の武道の拠点となった時代もありました。神戸で初めてボーイスカウト活動が行われたのも諏訪山公園でした。
■ 関連ページ 諏訪山
   
千苅水源池
(せんがり)
・ 神戸市民の水を確保するために大正3年(1914年)から大正8年(1919年)にかけて建設された水道専用の重力式コンクリートダムで、羽束川(はつかがわ)と波豆川(はずがわ)から水が入っている。水源池の水は千苅浄水場で飲み水とされる。ダムの高さ42.4m、ダムの長さ106.6m、貯水量11,612,538立方メートル、最大水深35m、貯水池の周囲23km
・ 千苅ダムは文化的価値の高い建造物で、平成10年12月25日文化庁「有形文化財」、平成21年2月23日経済産業省「近代化産業遺産」に認定。
・ 千苅浄水場内の広場は日本式庭園で「新・神戸花の名所50選」にも選ばれている。普段はこの庭園の中には入れないが、毎年春の千苅さくら祭りの日は、開放される。
■ 関連ページ 千苅水源池
   
善助茶屋跡
・ 毎日登山はこの地から生まれた。明治38年頃、在神の外人が北野から範多坂を登って、ここ善助茶屋にサインブックを置いて署名する習わしをつけた。元町及び海岸通の商社の人たちがこれに倣って登りだしたのが神戸市民の毎日登山の始まりである。
・ 大正初期から昭和十年頃までが最盛期で、この善助茶屋に百冊に余る登山会の署名簿が置かれ、早朝から賑わっていた。ただ、このゆかり深い善助茶屋も戦後次第に訪れる人がなくなり、いたずれに風雨にさらされ老朽化して、ついに取り壊しのやむなきに至った。
■ 関連ページ 菊水山・鍋蓋山〔神鉄ハイク〕
   
(旧)千万弗展望台
・ ケーブル虹の駅を下りて左手側にある広場にあった展望台。ここからの展望は百万弗どころではないということで「千万弗展望台」と名付けられた。
・ 昭和33年に初代木造の展望台ができ、昭和45年に鉄筋コンクリート二階建ての二代目が建設され、物珍しさから当初は多く利用されたが、次第に掬星台に客を奪われ、撤去された。
・ ここからの眺望は市街地と近く、掬星台とは違う迫力があり、近年再評価されている。
■ 関連ページ 
   
相談ヶ辻
・ 一ノ谷の合戦の前日、三草山から藍那の谷まで進んできた義経が、直進して鵯越に出るべきか、右折して白川に軍を進めるべきか迷い、椎の木の木陰に陣をとり、作戦会議を開き諸将に相談したところ
・ 鵯越と白川道の分岐点。神戸電鉄藍那駅南約1km。
■ 関連ページ 相談ヶ辻 
   
杣谷堰堤
・ 昭和31年(1956年)建築 都賀川水系杣谷川の中流域に建設された砂防ダム。幅78m、高さ16mの重力式コンクリート造堰堤。
・ ダムの天端及び水抜穴に花崗岩切石を使っている。堆砂量調節を目的として水通し中央部にスリットを設けた先駆的な砂防堰堤
■ 関連ページ  

 
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太子の森
・ 市章山及び錨山の南側、ビーナスブリッジの北側辺りの森。
・ この森は、昭和34年、皇太子御成婚を記念して整備された。
■ 関連ページ
   
大師道
(再度谷道)
・ 諏訪山児童公園の西から再度谷を遡る大龍寺への参詣道。
・ 参詣道としてのみ利用されたのではなく、小部、箕谷、谷上方面から修法ケ原を経て、山田方面からの物資を搬出した路でもあった。
■ 関連ページ 大師道
   
太閤の知るべ岩
・ 「知るべ岩」の項目を参照。
■ 関連ページ 知るべ岩
   
ダイヤモンドポイント
・ 石楠花谷と地獄谷西尾根南の出会いから約200m、ノースロードとの交差点。六甲山から北方の展望地として有名。
・ 左に石楠花谷から石楠花山、右に大きく切れ込んだ地獄谷、六甲アルプスといわれる地獄谷東尾根の稜線が望める。正面には丹生山系の山脈が広がる。
■ 関連ページ ダイヤモンドポイント
   
大龍寺
・ 和気清麻呂の開山。当初は摩尼山と号したが、804年弘法大師が入唐の安全祈願と807年の帰国後のお礼参りで再び入山されたので山号を再度山としたといわれる。
・ 本尊の菩薩立像は国指定重要文化財。
■ 関連ページ 大龍寺
   
高塚の清水
・ 有馬三名水の一つ。江戸初期の古書に「いさぎよく、いと冷ややかにて味わい又すぐれたり。」と記されている。
・ 有馬に湯治にきた豊臣秀吉がこの水でたてたお茶に感動し、大阪に帰城後も再三水汲みを命じたともいう。
・ 明治大正時代の治水工事で道が絶え、いつしか忘れ去られていたが、2002年春、有馬保勝会のメンバーが再発見した。
■ 関連ページ 白石谷・十八丁尾根
   
鷹尾城跡
・ 1511年、細川高国と澄元の両軍勢による鷹尾城と芦屋川原の合戦は阪神地方の有名な古戦場として知られている。
・ 残念ながら、鷹尾山(城山)の山頂には、城跡としての遺構は何も残っていない。
・ Shiroyama battlefield
■ 関連ページ 鷹尾城跡
   
高取山
・ 長田区にある独立峰。山頂に高取神社があり信仰と毎日登山の山。
・ ずっと昔大洪水があり、この山も水没した。水が引いて村人が山に登ってみると、大きな松の木にたくさんの蛸が足を絡ませていた。村人は大喜びで蛸を取って帰った。この時から「タコ取り山」と呼ばれるようになったのだとさ。
■ 関連ページ 高取山
   
高取神社
大灯籠
・ 明治43年建立より灯明絶えざりし大灯籠は大東亜戦争にて消灯した。平成元年に「平和の灯」として再点灯したが、平成7年兵庫県南部地震により、点灯部分が倒壊し以後仮点灯を続けた。
・ 平成13年高取神社鎮座1800年記念事業の一環として再建復興した。
■ 関連ページ 高取山
   
滝山城址
・ 新神戸駅のすぐ裏の城山にある城跡。
・ 瀧山城は、標高約300mの尾根を使った典型的な山城で、東西約600m南北約400mという広い城域を持ち、ほぼ完全な形で城跡が残っている。ハイキングコース沿いに何箇所もある小さな平地は、郭(くるわ)跡であり、木の柵や塀、矢倉などを設けて城を守っていた。
・ 滝山城は、室町時代に赤松円心が篭城し、戦国末期に松永久秀の居城となった。永禄9年(1566)に久秀の留守を攻められ、三好方の手で落城した。その後、信長の手に落ちて以降廃城となった。
■ 関連ページ 城山・滝山城址
   
袂石(礫石)
・ 袂石(たもといし)は、有馬太閤橋のそばにある大きな岩。
・ 昔、袂石の北二里ほどのところにあった道場城の殿様が葦毛の馬に乗り、重藤の弓と白羽の矢を持ち、有馬の山で鷹狩りをしたことがあった。山中で出会った美しい乙女を怪しく思った殿様は乙女に向かって矢を放った。そのとたんに殿様は目がくらみ落馬してしまったという。実は、乙女は、湯泉神社に祭られる熊野久須美の女神であった。矢を放たれて、逃げながら乙女は袂に小石を入れて身構えたが、殿様が落馬して追ってこられないことを知って、ここに袂の石を捨てたとも、逃げながら乙女が殿様に小石を礫のように投げたともいう。その小石が時と共に大きくなってこの巨石になった。袂石とも礫石とも呼ばれるこの石には、女神の力が宿っているという。
■ 関連ページ 袂石
   
丹生山
・ 丹生山の頂上に丹生神社がある。平清盛が福原遷都したとき比叡山に見立てて日吉山王権現をまつって月参りしたと伝えられる。
・ もとは南北朝時代に多くの僧兵を擁して栄えた明要寺の鎮守社であった。この寺も三木合戦で、別所方に味方したため秀吉軍に攻められ、焼き討ちにあい、後に復興された。明治初期の廃仏毀釈より廃寺となり、丹生神社と改称した。
■ 関連ページ 丹生山
   
稚児墓山
・ 丹生山系のこの山の頂上近くに、稚児の墓がある。それは羽柴秀吉が三木城攻めのさい、丹生の僧兵が別所方に味方したため、秀吉は怒り、丹生山明要寺を一山ほとんど焼き払った。僧侶も、童子も皆殺しとした。そのとき殺された稚児たちの命運を里人が哀れみ、この山に石を積んで墓をつくったのだとか・・・。
・ 丹生山系の最高峰。
■ 関連ページ 稚児墓山
   
通報プレート
119番通報プレート
・ 神戸市消防局により2004年2月から六甲山系に設置された番号の書かれた黄色いプレート。
・ ハイキング中に怪我や病気となった際、場所を特定して救助に役立たせるもの。救助を要する時には、その番号を救助隊に伝えればよい。
■ 関連ページ 119番通報プレート
   
衝原(つくはら)湖
呑吐(どんと)ダム
・ 美嚢川の支流山田川のちょうどシビレ山とシブレ山に挟まれた位置にあるダム。平成元年に竣工。
・ 主に農業用水と水道用水の供給を目的に建設された。堰堤からの眺めはよく、北側は志染三津田の水田地帯、南側はつくはら湖が広がっている。堰堤周辺の桜も見事。
・ 呑吐(どんと)という名は、かつてこの地にあった大小の滝が川の流れを呑み込んで吐くように見え、「呑吐の滝」と呼ばれていたことに由来する。
■ 関連ページ 衝原(つくはら)湖
   
鼓ケ滝
・ 落ちる滝の音が山々にこだまして、鼓を打つ音に似ていたのでこの名がついた。
・ 現在は、洪水等により岩が崩れ、形が変ったので残念ながらその音を聞くことはできない。
■ 関連ページ 白石谷・十八丁尾根
   
鼓ケ滝公園

Tsuzumigataki
Park
・ 鼓ケ滝を擁する公園。園内には川魚やサワガニがおり、森林浴が楽しめる。また、夏の夕暮れ時にはホタルがあたり一面に飛び交い、涼やかなカジカの鳴き声が聞こえる。
・ 園内には有明桜の碑があり、秋の紅葉など四季折々の魅力にあふれ、有馬六景のひとつに数えられる有馬の名勝である。
・ The name of the park is derived from the sound the waterfall makes when it echoes around the rocks and resembles the beating sound of a tuzumi hand drum. River fishes and carbs live in the park. Enjoy breathing the fresh forest air and strolling around the park. In the early summer dusk, fireflies glow and kajika leaf frogs croak like cool bells ringing. Also, with Ariake-zakura (cherry blossoms) in spring, and colored leaves in autumn, etc. the park offers attractive seasonal views throughout the year and is one of the Best Six Views of ARIMA.
■ 関連ページ 白石谷・十八丁尾根
   
鉄拐山
(てっかいさん)
・ 縦走路で旗振山の東に位置する山。山頂には、復興基準点・点名 FK322と鉄拐山三等多角点がある。
・ 鵯越の逆落としの場所については諸説があるが、一説では、寿永3年2月、義経の軍勢はここ鉄拐山からその急峻な山肌を一気に一の谷目指して駆け下りて平家の陣を大混乱に陥れたとされる。
■ 関連ページ 鉄拐山
   
天上寺
・ 摩耶別山にある寺。大化2年(646年)に、孝徳天皇の勅願によってインドの法道仙人により開かれた古刹。ご本尊はお釈迦様が自ら感成させたという十一面観音。弘法大師が唐より帰朝の折に釈迦の生母摩耶夫人像をこの寺に奉安したことから、山の名を摩耶山という。沙羅・百日紅が美しい寺。
・ 俳句の寺としても名高い。蕪村が摩耶詣での折に想いを得て詠んだという「菜の花や月は東に日は西に」の句碑が建っている。
■ 関連ページ 天上寺
   
天狗岩
(摩耶山)
・ 奥之院の北の山頂にあるこの天狗岩という巨石は広さ8畳ともいわれ、伝説によると摩耶山の僧が山中に出没する天狗を封じ込めたところだという。行者岩とも称され、今日でも修験道者が信仰の対象としているが、古い山岳信仰岩坐(神が降臨するといわれる巨石)だったのであろう。
・ この岩の名も、その北方から布引市ケ原に至る山道、天狗道の名もともにそこで修行する山伏の姿を見た山麓の農民が山伏たちを天狗と思って名づけた呼び名であろう。
■ 関連ページ 摩耶山
   
天狗塚
(長峰山)
・ 長峰山の頂上には天狗塚と呼ばれる巨石がある。ここからの大パノラマは六甲山地屈指の眺望を誇る。
・ ここに座っていると心が落ち着くのは、ここが天狗と呼ばれた行者達が山の自然と体を一体化させたパワースポットであったことによるのかもしれない。
■ 関連ページ 天狗塚
   
天皇池
・ 須磨、天井川左俣にある池。須磨離宮に水を引くために作られた。
・ 須磨離宮(武庫離宮)の造営は、良質の水が供給できることが選定の大きな要因であった。(その当時はコレラなどの疫病が流行していた。)天井川を堰きとめて水を貯め、水源地とした。通称「天皇の池」と呼ばれていた。当時は周囲に鉄条網が張り巡らされていた。
・ 鋳鉄管で送水し、浄水場で浄化したあと御殿などへ送られた。池の横にあるトンネル(隧道)は、大雨のときに土砂水の迂回路として掘られたらしい。同デザインの隧道が離宮公園内にもある。
■ 関連ページ 天皇池
   
天王谷
・ 神戸駅から有馬街道を北に進み山間に入ると天王谷となる。天王谷の入口には祇園神社があり、ここには牛頭天王(ごずてんのう)が祀られている。天王谷の名はこの神社に由来するものという。
■ 関連ページ 天王谷東尾根 天王谷西尾根
   
天覧台
・ 六甲ケーブル山上駅にある展望台。阪神間や大阪平野部、和歌山方面までワイドに広がる景色が一望できる。大阪・神戸の夜景を一望出来るビューポイントとしても知られている。
・ 昭和56年5月25日に昭和天皇がお立ち寄りになられ、神戸1000万ドルの夜景をご覧になられたことを記念して「天覧台」と名づけられた。
・ The Tenrandai observatory located on Mt. Rokko was so because it had been a place where the Tenno emperor came to visit.The name itself means “the view where the Emperor stood” Located east of Mt.Maya and west of Rokko Garden Terrace, it provides a well balanced view of the night scenery spreading from Kobe to Osaka Bay.
 In july of 2004, the observatory was recognized as a “Japanese night View Heritage Site.”
■ 関連ページ 天覧台
   
徳川道
・ 徳川道は、日本が開国を迎えた江戸時代の末期(1868年)に、外国人とのトラブルをさけるため、海沿いの主要幹線である「西国街道」を大きく迂回する石屋川から杣谷・小部・藍那・白川・高塚山を経て大蔵谷に至るバイパスとして、幕府の命により完工しました。しかし、実際には利用されないまま開国を迎え、この道は廃止されましたが、大正時代より六甲を歩くハイカーたちに利用され、いつしか「徳川道」と呼ばれるようになりました。(出典:穂高湖付近の大きな看板「平成26年6月神戸市森林整備事業」)
・ 幕府の命により兵庫開港の年慶応4年(1868年)に完工した。当時の名称を西国往還付替道(さいごくおうかんつけかえどう)といい、海沿いの主要幹線である西国街道を大きく迂回する道筋であった。居住地での外国人との衝突をさけるために設置されたにもかかわらず、同年、備前藩が外国人と衝突、市街地が外国兵により占拠された。 世に言う”神戸事件”である。その後この道は廃止されたが、大正年代よりハイキングコースとして利用され「徳川道」と呼称されるようになった。
・ 六甲山中では、杣谷道と摩耶山裏の谷筋が徳川道の一部として残されている。
■ 関連ページ 徳川道
   
徳川道石積み
・ 対岸の雑木の間に見える石積みは、徳川道名残の石垣であり石垣の上を徳川道が通っていた。この石垣は25間(45m)にわたってつくられ高さは平均4尺(1.2m)であった。いま残っているのはその一部である。積み方は「ごぼう積」といって加工しない自然石で奥行きを深く積み上げ、内側でしっかり組み合わせる積み方である。(出典:摩耶山裏の徳川道脇の看板「環境庁・兵庫県」)
■ 関連ページ 徳川道
   
魚屋道
・ 深江から六甲最高峰下の一軒茶屋を経て有馬に至る道。
・ 深江の浜で採れた魚を背に行商人が六甲山を越え有馬温泉に運んだことからこの名が付いた。
・ 昔、この道を越えていた魚屋が余った魚を飢えた山犬に与えたところ、そのお礼に山犬が魚屋を狼の群から守ってくれたという昔話も伝えられている。
■ 関連ページ 魚屋道
   
飛石渡し
・ 川の中に大きな石を平らな面を上にして数個、置き並べ、その上を渡るようにしたもの。
・ 徳川道の、川を渡る場所に造られた。
・ 置かれた石の大きさは長さ2尺から3尺(60〜90cm)、幅1尺5寸から2尺(45〜60cm)であった。杣谷の登り口から植物園の東口までの間に19箇所の飛石渡しがあり、一箇所には平均4個の大石が置かれていた。
■ 関連ページ 飛石渡し
   
鳥地獄
・ 魚屋道を有馬温泉に下りついたところにある。射場山と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼ぶが、この谷は数十万年前の地殻変動のときにできた射場山断層である。射場山断層の割れ目からたくさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥などが死んだのでこの名の由来がある。この付近に湧き出ている炭酸水は、かつてはその成分がわからず、町民から毒水として恐れられていた。明治以降に虫や鳥が死んだのが炭酸ガスのせいだとわかった。
■ 関連ページ 鳥地獄

 
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那須与市の墓
・ 那須与市宗隆は屋島で扇の的を射た若武者。与市は下野国(栃木県)那須の庄の住人で、郷里にも墓所があるが、須磨では晩年に与市が北向厄除八幡神社へお礼のために参詣し、病のためにこの地で没したと伝えられている。この墓所に参詣すると、年老いても「しもの世話にならない」との信仰があり、毎月7日のご命日には多くの参詣者が訪れる。
・ Nasuno yoichi was a young soldier who fought many battles under the command of Yoshitune during the Genpei war and earned praise during the battle of Yashima for shooting down a target on a Heike ship with a single arrow. It is said that in his later years Nasuno Yoichi visited this area to pay tribute but fell ill and died here. There is a legend that if you worship here you will not become decrepit and a burden to your family in your old age.
■ 関連ページ 那須与一の墓
   
那須神社
・ 源平合戦のとき、那須与市宗隆がこの神社を守護神として戦場に臨み、武運をまっとうした。その後、与市はお礼のため再びこの地を訪れ参詣したが、たまたま病にかかり、この地で死去したという伝説がある。大正10年頃、境内に与市を祀る那須神社を勧請している。
■ 関連ページ 那須神社
   
ナマズ石
・ 阪神大震災で荒地山上部(通称ナマズすべり)から落ちてきた大岩。地震で移動した石では最大のもので約500トンある。
・ ナマズ石の名前の由来は・・地震を引き起こしたナマズが動かした石・・・からきているとも・・?
・ 石の表面の文字のようなものは弥生時代に書かれた中国古代文字(ロンサン文字)とされる。稲作の文化を大陸より伝えた古代人により書かれたものといわれる。
■ 関連ページ ナマズ石
   
灘の一ツ火
・ 保久良神社境内にある石灯篭。
・ この石灯籠は文政八年(1825年)のものですが、住吉は“かがり火”を燃やし、中世の昔より“油”で千古不滅の御神火を点しつづけ、最初の灯台として「灘の一ツ火」と海上の船人の目印にされました。古くからふもとの北畑村の天王講の人々が海上平安を願う「祖神」の遺志を継承し、交代で点灯を守り続けてきたものです。
■ 関連ページ 灘の一ツ火
   
二本松林道
・ 再度ドライブウェーの二本松バス停から猩々池を経て有馬街道(国道428)に通じる林道。
・ 二本松バス停から猩々池までは車の通行が可能。
■ 関連ページ 二本松林道
   
二本松道
・ 北野町からハンター坂、二本松茶屋、二本松を通り善助茶屋まで通じていた道。
・ 明治の末から、大正・昭和の始めにかけて、毎日登山のルートの一つとして賑わっていた。
■ 関連ページ 二本松道
   
布土の森
ヌノドの森
・ 唐櫃小学校の横にある小さな森
・ この森の中に神功皇后を祀るという石造りの祠がある。大和時代、神功皇后が三韓から持ち帰った武器甲冑と雌雄一対の黄金造りの鶏を唐櫃に入れて埋められたと伝えられ、それが、唐櫃の地名の起こりであるといわれている。昭和42年3月 神戸市(出典:布土の森の石碑・唐櫃石神社)
■ 関連ページ 布土(ヌノド)の森
   
布引の滝
・ 布引貯水池下流の滝。那智の滝、華厳の滝と並んで、日本三大神滝といわれる。
・ 布引の滝は、雄滝(43m)、夫婦滝、鼓滝、雌滝(19m)の4つの滝からなる。
・ 布引の滝の水が少ないときは、奥平野浄水場からの遠隔操作で布引ダム(布引五本松堰堤)のバルブを開き水を放流し、ダムの景観を保っている。放流時間はam6からpm9まで。
■ 関連ページ 布引の滝
   
布引貯水池
・ 日本最古の重力式コンクリートダム。平成10年、文化財の指定を、平成18年に国重要文化財の指定を受けた。
・ 神戸市の水道は、明治33年に給水を始めたが、このとき使われたのが布引貯水池の水。
・ Kobe's water supply system began Meiji 33(1900). The water which supplied the inner Kobe city area at that time came from Nunobiki Reservoir. Nunobiki Dam is Japan's oldest gravitational concrete dam. In Heisei 18(2006), it was designated as an important cultural property. In order to ensure a steady supply of water in the future, after the Hanshin-Awaji Earthquake, construction was carried out to make the dam earthquake resistant. The water in this reservoir becomes the water we drink. Please do not dirty this precious water source.
■ 関連ページ 布引貯水池 布引ダム堰堤

 
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旗振山
・ 須磨浦公園駅裏の山で、昔、旗振り通信をしていた場所。兵庫の米相場を岡山へと伝達するための旗振場で、畳半畳ぐらいの旗の振り具合で相場がわかるようにしていた。
・ 旗振場は15kmの間隔で設けられていたという。
■ 関連ページ 旗振山
   
八州嶺
・ 標高698.6m 摩耶山頂の三等三角点がある丘は、八つの国が見渡せたことから八州嶺と名付けられた。
・ 現在は木が繁って、見通しは利かない。
■ 関連ページ  
   
ハンター坂
・ この坂の近くに、1867年に神戸に来たイギリス人貿易業者E.H.ハンターの邸宅があった。
・ E.H.ハンターはこの邸宅の横から再度山への登山道を開いたといわれ、これが毎日登山発祥のルートであると言われている。ハンター坂と呼ばれたこの登山道は昭和20年代の砂防工事で通れなくなったという。
・ 現在ハンター邸は王子公園に移築されている。
■ 関連ページ ハンター坂
   
ビーナスブリッジ
・ 再度DWをまたいで金星台(諏訪山公園)と山頂の展望広場を結ぶ美しい8の字形のループ橋で、昭和46年に建てられた。平成16年には、恋人たちが自由に愛の鍵を取り付け、願いが叶えられる「愛の鍵モニュメント」が完成した。
・ 明治7年にフランス人天文学者ジャンセン氏らが、諏訪山公園で太陽と金星、地球が一直線に並ぶ「金星の太陽面通過」という現象を観測したことにちなんで名付けられた。
■ 関連ページ ビーナスブリッジ
   
百丈岩
・ 江戸時代の摂津名所図会には、鎌倉峡を「かもしか谷」のなまったものだと記するとともに、百丈岩については「高さ数十丈尺、岩上には百畳を敷けるより名とす」と述べている。室町時代より、有馬温泉を訪れた文人や高僧たちは、競ってこの地を訪れて、奇勝景観の美を絶賛した詩歌や紀行文をものすることを風流とした。(出典:百丈岩やまびこ茶屋脇の看板「神戸市北区役所・道場町連合自治会」)
・ 緑の山並みの中、暗灰色に浮かび上がる巨岩は、基部からの高さは約60m、3面が絶壁の垂直となっており、千苅貯水池岩近くの不動岩とともに、岩登りのゲレンデとして知られています。(出典:神鉄二郎駅の近畿自然歩道の看板「環境庁・兵庫県」)
■ 関連ページ 百丈岩
   
百万弗テラス
・ 摩耶ケーブル虹の駅は、かつては摩耶駅と呼ばれ、昭和30年に摩耶ロープウェーが開業するまでは摩耶山の山上駅として賑わった。その駅前にあった百万弗テラスは絶景スポットとして人気があった。
■ 関連ページ 
   
深江山之神社跡
・ 神社跡に次のとおり表記された看板がある。
深江の人々が農業の守り神として安政五年(1858年)よりお祭りしてきましたが、社会環境の変化もあり、深江大日霊女神社(大日神社)境内に移すことになりました。 今日まで長い間ご参拝・ご支援いただき有り難うございました。平成十六年 三月吉日 大日霊女神社 奉賛会
■ 関連ページ 深江山之神社跡
   
再度公園
・ 再度山(ふたたびさん)の北に位置する。公園内の池周辺の松は日本の名松百選のひとつ。秋の紅葉の名所でもある。
■ 関連ページ 再度公園
   
再度山
・ 弘法大師が入唐のときこの山に登山して求法を祈り、帰朝ののち再びお礼のため登山したので「再度山(ふたたびさん)」の名がおこったという。
■ 関連ページ 再度山
   
仏座巌
・ 仏座巌は、その形が仏座に似た巨岩であり、寛文の頃(1660年代)、日蓮宗の高僧・元政上人によって命名されたとされる。元政上人の有馬滞在記「温泉遊草」、「仏座巌記」では、「その上に菜畠を作り、なお、数十人を容れる余地がある」と巨岩の様を表現している。しかし、その後の文化9年の大洪水で埋没し、現在はその一部のみが姿を見せていると言われる。
■ 関連ページ 仏座巌
   
弁天岩
・ 芦屋川右岸、ナマズ岩近くの車道沿いにある。
・ 「その昔、長く干ばつが続いたとき、雨乞い行った山伏が、芦屋沖でつかまえたフカを滝の近くの平らな石に据え、三日三晩祈り続け、三日目の夜に大きな包丁でフカを突き刺し、その血を水神さまの祀ってある弁天岩に振りかけた。すると、水神さまは弁天岩の汚れた血を洗い流すため、即座に大雨を降らせた!」との言い伝えがある。
■ 関連ページ 弁天岩
   
防火線
・ 平野谷東尾根(再度谷西尾根)は、山火事の広がりを防ぐため、尾根の草木が幅広く刈り払われている。その両側には燃え難い樹木が植えられ山火事に備えている。
・ 防火線となっている尾根道は展望のハイキングが楽しめる。
■ 関連ページ 防火線
   
法道仙人
息継ぎの井
・ 摩耶史跡公園から掬星台へと続く摩耶古道の途中、鬱蒼とした森の中にちょろちょろと水が湧き出ているところ。
・ 天上寺を開山した法道仙人が一休みしたかもしれないということで名付けられたという湧き水のスポット。
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蓬莱峡
・ 有馬街道(大阪−有馬)の途中にある峡谷。太多田川の谷間にある崩壊壁の起伏の激しさは、恐ろしい怪獣の牙を思わせる。薄い鋭い岩肌、白いぼろぼろの壁、屏風を引き廻したような連続する谷の景勝地である。
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保久良梅林
・ 「梅は岡本、桜は吉野」といわれ、岡本は梅の名所でしたが、宅地化等により其の面影は失われました。そこで、かつての梅の名所を今に伝えようと地元の協力を得て、神戸市が保久良神社境内に梅を植え、剪定や施肥などの管理をしています。
■ 関連ページ 保久良梅林
   
穂高湖
・ 上高地から仰ぐ穂高連峰をイメージさせるということから名付けられた。杣谷峠の北側にある。
・ 湖畔にシェール槍や新穂高の小峰があり、湖面にこれらが映りこむ瞬間が、至高の瞬間らしい。
■ 関連ページ 穂高湖
   
梵字石
・ 摩耶山にある「産湯の井」の中から出てきた石。
・ 石に彫られている字は「大日如来」を表す梵字である。特徴のある彫り方や形から鎌倉時代のものとされています。井戸を聖なる所とし、魂として字を書いた土器や銅鏡を入れた古い例があることから、この石も同じような習俗により祀られていたものと思われる。
■ 関連ページ 梵字石・産湯の井
   
本庄橋跡
・ 本庄橋は魚屋道が住吉川の上流を渡るところにかけられた石橋で、このあたりが本庄九ケ村の入会地であったことにちなんで名づけられたのであろう。灘地方と有馬を結ぶ東六甲最古の山越え交通路で、当時の絵地図によると今の登山コースとほぼ一致して東灘区森で西国街道から分かれて山に登り、風吹岩、東お多福山、本庄橋、一軒茶屋、射場山々腹、有馬のルートを通っていた。幕府が灘から有馬への正規の街道を、西宮、宝塚、蓬来峡、船坂、有馬と定めた後も、遠まわりを嫌って人々はこの道を利用しつづけた。そこで街道沿いの西宮や生瀬などの宿場の商人は、これを「抜け荷の道」と称して大阪奉行所へその通行止を訴え、しばしば紛争がおこった。この本庄橋自体の建設年代は不明だが、文化3年(1806年)に灘と有馬の人々が道筋を大改修した記録がある。」(田辺真人記)
■ 関連ページ 黒岩谷西尾根・黒岩谷

 
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摩耶花壇
・ まやビューライン虹の駅から旧天上寺があった摩耶史跡公園へ向かう参詣道を行くと「摩耶花壇」という看板がかかった廃屋がある。当時はここが摩耶山の終点であり、旧天上寺への参詣口であった。
・ 摩耶花壇は摩耶ケーブルが運転を始めた大正15年に山上の宿泊施設として開業した。ロープウェーが開業する前はこの周辺が摩耶山上としてレジャー施設が整備されていった。当時の新聞記事を見ると、地下室を合わせて3階建てのお洒落な洋館だったが、今では草に覆われた基礎だけが残っている。
・ 摩耶花壇からケーブル駅への道沿いは、桜の名所でもあった。
■ 関連ページ 摩耶花壇
   
摩耶観光ホテル
 (摩耶観)
・ 昭和5年い開業したホテル(当初は摩耶山温泉)。
・ 窓上の庇が水平線を強調したデザインである。L字型プランで南側に飛び出した部分や屋上の煙突など、船の艦橋を彷彿とさせる威容から、かつては「軍艦ホテル」と呼ばれていた。今はその使命を終え、摩耶山山腹にひっそりと眠る。
・ 現在は立入禁止
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摩耶ケーブル
 摩耶駅展望台
・ 昭和初期、摩耶ケーブル駅を下りてすぐの左手あたりにあった展望台。当時はここが摩耶山の終点。旧天上寺への参詣口であった。
・ 昭和30年奥摩耶へのロープウェー開通後に、二階建ての「一千万弗展望台」に建替えられたが、現在はそれも取り壊されて、小さな広場になっている。
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摩耶自然観察園
・ 摩耶山上の施設。
・ 摩耶山は、昆虫や植物など自然の宝庫として知られており、ミズバショウやザゼンソウなどの珍しい植物が見られる。また、多くの野鳥が確認されており、バードウォッチングにも最適である。園内の「あじさい池」では6月になると満開のあじさいが咲き誇る。
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摩耶山
・ 646年インドの法道仙人が、この山にお釈迦様作の十一面観音像を祀り霊場を開き、その後、弘法大師が釈迦の生母摩耶夫人の像を祀って天上寺を創建したことから摩耶山の名が付いた。
■ 関連ページ 摩耶山
   
摩耶山史跡公園
・ 摩耶山(702m)は、古来山岳信仰の場であり、大化2年(西暦646年)、孝徳天皇の勅願を受け、法道仙人により仏教寺院が開創されました。その後大同年間、弘法大師空海によって、摩耶夫人像が奉安され、伽藍が造営されました。これが、摩耶山とう利天上寺です。 長い歴史の中で、観音霊場や安産祈願の寺として信仰され、最盛期には多くの塔頭、僧侶を抱えた摂津地方第一の大寺だったと伝えられています。表参道である上野道や、青谷道、また、兵庫方面の人々は、布引の東から山に入り天上寺に参りました。 昭和51年1月30日、天上寺は炎上、主要構造物のほとんどを焼失しました。その後、寺は、開創の地と伝えられる元摩耶へ移転し再建されました。神戸市では、旧境内地を歴史・伝説を有する史跡公園として整備を行っています。(神戸市森林整備事務所 山門近くの看板より) 
・ 摩耶山は 古来山岳信仰の場であり、真言密教の伝来後は、そこに仏教寺院が建てられた。これが”とう利天上寺”である。この寺は、昭和51年1月30日炎上し、主要建造物は焼失した。神戸市は、旧境内を自然溢れる市民の憩いの場とし、歴史伝説を有する史跡のイメージを残すため史跡公園として整備した。
・ 天上寺は現在復興され、この史跡公園より北へ700mの地(開祖の地とされる元摩耶:縦走路沿い)へ移転している。
■ 関連ページ 摩耶山史跡公園
   
摩耶山史跡公園
仁王門
・ 旧天上寺の仁王門。門の前には「下乗」と書かれた碑がある。参詣者はここで馬や駕籠から下りて、徒歩で境内に向かったという。
・ かつては門の両側に仁王像が安置されていたが、現在は山上の天上寺の金堂の両脇に安置されている。門をくぐった急な階段の両側には、室町時代には300あったという塔頭や茶店が斜面に張り付くように並んでいた。
■ 関連ページ 摩耶山史跡公園
   
摩耶の石舞台
・ 摩耶山掬星台からオテル・ド・摩耶に向う途中にある。摩耶の石舞台からは、山の端と眼下の市街地が見渡せ、清水の舞台にも似ていることからその命名がされた。
・ 平成24年4月に摩耶山を守ろう会40周年記念事業として命名された。
■ 関連ページ 摩耶の石舞台
   
摩耶の大杉
・ 摩耶山中腹にある大杉で、市街地から眺めても一際目立っている。旧摩耶天上寺の塔頭の一つであった蓮華院の西側に位置し、幹周り8mもある大木であった。
・ 昭和51年の旧天上寺の大火災の後、火を被ったことが原因で、徐々に樹勢が衰え、枯死してしまった。
■ 関連ページ 摩耶の大杉
   
摩耶別山
・ 天上寺の裏参道を登り、水道局の施設あたりが摩耶別山の頂上。 「元摩耶」とも呼ばれ、646年法道仙人が開創した天上寺創設の地でもある。
・ 標高は摩耶山より高く717m。
■ 関連ページ 摩耶別山
   
丸山湿原
・丸山湿原群は宝塚市北部西谷地区の丸山(標高328.4m)の南西側の山間に位置する5つ湿原からなる湿原群です。県下随一の面積と生物多様性を誇る湧水湿原で、湿原に特有のさまざまな生き物がみられる非常に貴重な場所になっています。そのため、現在では「地域の宝物」として、地域住民、企業、行政などが一緒になって丸山湿原群を未来に残していくための取り組みが進められています。
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回る十国展望台
・ ガーデンテラス北側の丘の上にあった施設。
・ 昔の山城、大和、摂津、河内、播磨、淡路、阿波、和泉、紀伊、丹波の十国が居ながらに見渡せることから命名された展望台。回転式の3層展望台で、約5分で一回転し360度の大パノラマを楽しむことができた。
・ 昭和32年に開業し多くの人に親しまれたが、平成14年11月に惜しまれながら幕を閉じた。灘百選のひとつ。
・ The mark of "Jukkoku-observatory"
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三国池
・ 三国岩から南西に約3分歩いた林の奥に広がる池。
・ 六甲山の開祖グルーム氏がこの池のほとりに住居を建て、「101番館」と名付けた。池のほとりに「101」と刻まれた石柱が残っている。
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三国岩
・ 旧矢田部(矢部)郡、莵原郡、有馬郡の境界点にあり、巨石が三つ積み重なっていることからこの名が付いた。
・ 岩肌には無数の小さな穴凹があり、光の当たり方によっては人の顔や文字のようなものが浮かび上がるといわれています。(7月の下旬、太陽の位置によって岩の表面に人面のような彫り物が浮かび上がるといわれるミステリースポットでもある。)
・ この岩の北奥にも、しめ縄の張らられた大岩がある。
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みよし観音
・ 六甲ガーデンテラスの南西で、縦走路から石切道へ下る地点のやや西にある。
・ 昭和39年の雪の降る朝、大阪から徳島に向かっていた飛行機が遭難した。搭乗していたスチュワーデスの麻畠美代子さんは、冷静に7人の乗客を救出した後、最後の1人を救出しようとして、航空機の爆発に遭い、猛炎と共に帰らぬ人となった。21歳であったという。心やさしかった彼女の悲壮な捨身行は、観音様の化身であろうと受け止めた人々によって、その後、このみよし(美代子)観音が建立された。
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妙見寺
・ 有馬三山の一つである落葉山の山頂にある。
・ 鎌倉時代、元真言宗金杖山金剛寺を法ケ宗(現日蓮宗)に改宗。本尊の福徳開運北辰妙見大菩薩尊像は後小松天皇の勅願にて、三代将軍足利義満公が捧持。有馬の鎮護にと祀られ、明治39年愛宕山の麓より落葉山の山頂に移した。
・ In the Kamakura era, the temple was originally of the Shingon sect of Konjo-zan Kongo-ji but converted to the Hokke sect. The enshrined statue of Fukutoku-kaiun-hokushin-myoken Dai-Bosatsu (Bodhisattva) was donated to the temple at the request of the emperor Go-Komatsu by Ashikaga Yoshimitsu. The temple was dedicated to becalm Arima. In Meiji 39(1906), the temple was moved from the foot of Mt.Atago-yama to the summit of Mt. Ochiba-yama.
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虫地獄
・ 魚屋道を有馬温泉に下りついたところにある。射場山と愛宕山との間の谷を地獄谷と呼ぶが、この谷は数十万年前の地殻変動のときにできた射場山断層である。射場山断層の割れ目からたくさんの炭酸ガスが噴き出て、虫や小鳥などが死んだのでこの名の由来がある。この付近に湧き出ている炭酸水は、かつてはその成分がわからず、町民から毒水として恐れられていた。明治以降に虫や鳥が死んだのが炭酸ガスのせいだとわかった。
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紅葉谷道
・ 六甲山上の極楽茶屋跡から有馬温泉に至る道。
・ 道中には、ブナ、イヌブナ、カエデ類など紅葉や新緑の美しい樹木が豊富。この辺りの気候は青森付近など東北地方に似ているので、六甲山域の他の地域と異なり、ブナやイヌブナの混じった落葉広葉樹林となっている。秋にはその名の通り紅葉が見事。
・ 有名な「有馬四十八滝」はこの道の近くにある。
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山田道
・ 湯ノ山街道上の谷上方面から修法ケ原を経て、山上に登る道筋。六甲山系の稜線を越した後、大師道(再度谷道)へと入る六甲越えの重要な路であった。
・ この山田道と大師道(再度谷道)は牛馬の背に乗る物資の運搬路として利用された。
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六甲アルプス
・ 地獄谷東尾根にある693m高地から20分ほど登った辺りから東に向かってのびる枝尾根をいう。六甲アルプスの尾根を下ると、裏六甲ドライブウェイのカーブ37の所に降りつく。
・ 風化した岩石の痩せ尾根が、まるで恐竜の背のようになって続いているスリリングなエリア。落石の危険があるので、走行には十二分に注意が必要。
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六甲枝垂れ
・ 六甲の自然を体感できる自然観察展望台として六甲山回る展望台跡地に平成22年にオープンした。
・ 自然エネルギーを活用したエコ仕様が自慢。外観はヒノキを網目状に組んだユニークなデザイン。冬には着氷し六甲山名物の樹氷のようになる。
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六甲大通り
(グルームコース)
・ 縦走路のうち、六甲山小学校からカレーライスの登六庵を経て東に伸びる通り。六甲山上で最初につくられた大通り。
・ 東西に伸びる尾根を利用して開かれた変化に富んだ散策道で、この辺一帯に欧米人の山荘が点在し、大正から昭和初期にかけて賑わいだ。
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六甲最高峰
・ 東西30km、南北8kmにも及ぶ六甲山系の中でてっぺんに位置する。(六甲山という山名はないので、六甲山最高峰と呼ぶ。)
・ 標高931.25mだが、傍らの国土地理院等が設置した三角点の説明盤には931.13mとある。阪神淡路大震災で12cm高くなった。
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わんぱく砦
・ 有馬富士登山道にある急勾配の岩場。展望良し。
■ 関連ページ わんぱく砦


参考させて頂いた主な著述
・摩耶WALK摩耶山さんぽ手帳(摩耶協議会)
・まるごと六甲山(国立公園六甲山地区整備促進協議会:2009/10)
・六甲山の楽しみ発見マップ(神戸県民局)
・神戸の道標(山下道雄他著 神戸新聞出版センター)
・北神急行ハイキングマップ(北神急行電鉄)
・須磨歴史紀行(須磨区まちづくり課)

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